今回買った新潟のお土産ベスト5!
2017/08/07 Mon. 16:00 [信越旅行記とお土産]
新潟土産をいろいろと探しましたよ。食べ物の本当においしい新潟県ですが、いろいろとみて廻りましたが意外と素朴なものが多くてびっくりしました。
いろいろ悩みながら今回買った5品をご紹介します!!
第5位 笹団子 田中屋本店 (5個 700円)

新潟名物の笹団子です。沢山のメーカーがあるのですが、地元の方のおすすめがこの田中屋本店さんでした。

新潟空港に向かう途中にある新潟ふるさと館という大きなお土産屋で実演販売されていました。

ヨモギ色の団子は本物の笹の葉っぱで二つずつ丁寧に包まれていました。

実に素朴な味でびっくりでした。青臭さといっていいほどの濃厚な緑の香りがつんとして、素朴なお餅の中に、こしあんや粒あんが入っていました。おいしいですよ。でも早く食べないと、保存料などの添加物を使っておられないようですのでお餅が硬くなってしまいます。
第4位 元祖 柿の種 浪花屋製菓 (レギュラー缶 1,080円)

全国的には亀田製菓さんが有名ですが、もともと柿の種のお菓子を作ったのはこの浪花屋製菓さんです。

昭和的な四角いかんかんの容器がいいですね。その中に一人分ずつ小包装されていますよ。

とても香ばしくてもち米のうまみを感じるかきの種でした。旨かったです。
第3位 いち井 ラーメン (どちらも3食 1,080円)
新潟には燕三条背脂ラーメンや三条カレーラーメンなど5大ラーメンがありますが、長岡市ではあっさり醤油ラーメンが有名なようです。そのなかでも有名な「いち井」さんのラーメンがお土産になっていたので買ってみましたよ。

いい感じのパッケージです。

さっそくいただきましょう。

左の醤油は豚骨スープにアジなどの魚介スープをミックスした個性的な豚骨醤油です。濃厚な中にもうまみがたっぷり詰まっていました。塩も珍しいことに豚骨―プが使用されています。そこにトビウオの魚介スープを加え、塩でありながら十分なうまみと濃厚さを纏ったラーメンに仕上がっています。
これは長岡に行って食べたくなりましたよ。
第2位 包丁 藤次郎

燕市は三条市とならんで鍛冶製品が有名な場所です。そこで包丁の品質の素晴らしさで有名な藤次郎 包丁(6,500円)を購入しました。
とても切れ味がよく、重さのバランスもよいので使いやすい包丁でした。お気に入りの一本になりましたよ。
購入したのがこちらの藤次郎さんの本社です。

こちらのショールームには素晴らしい包丁などの製品が並んでいました。


ぜひ、燕市に行かれた時には寄ってみてくださいね。
第1位 日本酒

新潟といえばこれですね。旨いお酒がたくさんあります。関西で購入するとプレミアがついてとても高いのですが、地元密着のお店だと普通の地酒の値段で販売されています。しかも、あらゆる種類がそろっていてびっくりしました。
お店の名前は長谷川屋(公式HP)です。なんと久保田の千寿が2,446円、越乃寒梅の純米吟醸が三千円前半だったと思います。このほかにも新潟の地酒でないものはないくらいの品ぞろえにビックリしました。
新潟もまたゆっくり廻ってみたいと思いました。
ごちそうさまでした。またお邪魔します!

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いろいろ悩みながら今回買った5品をご紹介します!!
第5位 笹団子 田中屋本店 (5個 700円)


新潟名物の笹団子です。沢山のメーカーがあるのですが、地元の方のおすすめがこの田中屋本店さんでした。

新潟空港に向かう途中にある新潟ふるさと館という大きなお土産屋で実演販売されていました。

ヨモギ色の団子は本物の笹の葉っぱで二つずつ丁寧に包まれていました。

実に素朴な味でびっくりでした。青臭さといっていいほどの濃厚な緑の香りがつんとして、素朴なお餅の中に、こしあんや粒あんが入っていました。おいしいですよ。でも早く食べないと、保存料などの添加物を使っておられないようですのでお餅が硬くなってしまいます。
第4位 元祖 柿の種 浪花屋製菓 (レギュラー缶 1,080円)

全国的には亀田製菓さんが有名ですが、もともと柿の種のお菓子を作ったのはこの浪花屋製菓さんです。

昭和的な四角いかんかんの容器がいいですね。その中に一人分ずつ小包装されていますよ。

とても香ばしくてもち米のうまみを感じるかきの種でした。旨かったです。
第3位 いち井 ラーメン (どちらも3食 1,080円)
新潟には燕三条背脂ラーメンや三条カレーラーメンなど5大ラーメンがありますが、長岡市ではあっさり醤油ラーメンが有名なようです。そのなかでも有名な「いち井」さんのラーメンがお土産になっていたので買ってみましたよ。

いい感じのパッケージです。

さっそくいただきましょう。

左の醤油は豚骨スープにアジなどの魚介スープをミックスした個性的な豚骨醤油です。濃厚な中にもうまみがたっぷり詰まっていました。塩も珍しいことに豚骨―プが使用されています。そこにトビウオの魚介スープを加え、塩でありながら十分なうまみと濃厚さを纏ったラーメンに仕上がっています。
これは長岡に行って食べたくなりましたよ。
第2位 包丁 藤次郎

燕市は三条市とならんで鍛冶製品が有名な場所です。そこで包丁の品質の素晴らしさで有名な藤次郎 包丁(6,500円)を購入しました。
とても切れ味がよく、重さのバランスもよいので使いやすい包丁でした。お気に入りの一本になりましたよ。
購入したのがこちらの藤次郎さんの本社です。

こちらのショールームには素晴らしい包丁などの製品が並んでいました。


ぜひ、燕市に行かれた時には寄ってみてくださいね。
第1位 日本酒

新潟といえばこれですね。旨いお酒がたくさんあります。関西で購入するとプレミアがついてとても高いのですが、地元密着のお店だと普通の地酒の値段で販売されています。しかも、あらゆる種類がそろっていてびっくりしました。
お店の名前は長谷川屋(公式HP)です。なんと久保田の千寿が2,446円、越乃寒梅の純米吟醸が三千円前半だったと思います。このほかにも新潟の地酒でないものはないくらいの品ぞろえにビックリしました。
新潟もまたゆっくり廻ってみたいと思いました。
ごちそうさまでした。またお邪魔します!


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[edit]
越後の国の一宮で心静かに手を合わせてきました ~彌彦神社 新潟県弥彦村
2017/08/07 Mon. 14:00 [信越旅行記とお土産]
せっかく新潟に来たのですからもっとも新潟の人々の信仰を集める神社に行こうと彌彦神社(いけひこやじんじゃ)にお参りに行ってまいりました。
一の鳥居に一礼して参道を進みます。

この神社は弥彦神社とも書かれていますね。新潟の人々には「やひこじんじゃ」と呼ばれることが多いようです。

一の鳥居をくぐったらすぐに参道の足元をきれいな小川が流れています。右側を眺めると丸くアーチを描いた朱色の橋が見えます。これは玉の橋といって、神様が通る橋とされていて、人間はここを通ることを許されません。

広い境内を歩く前にトイレに行きたいと参道を外れて右側にある広場に向かいますが、ここには立派な土俵がありました。
この彌彦神社は「古事記」によると「高倉下」が越後開拓の命を受け、新潟にて産業を振興させて越後国を造った神として弥彦山に「天香山命」として祭神として祀られ、神社を創建されたという歴史があります。
それだけに新潟の人々の信仰を集めている神社なのですね。

100mほど参道を進むと少し開けたところにでます。ここに札所がありました。
その右奥には石で作られた俵が積まれていましたね。

その右奥には大の上に2つの少し大きめの石が2つ並んでいました。

これは火の玉石といわれる石です。別名では「重いの軽いの石」とも呼ばれているそうです。
この石が軽く持ちあがれば願いはかない、重くて持ち上がらなければ願いはかなわないといわれる石で、皆さんそれぞれに持ちあげていました。惣兵衛も持ちあがりましたよ。いいことがあればいいですね。
ここから参道は右に折れて進みます。

ここからは聖域に入るので手水社で身を清めて先に進みます。

また閑静な参道がまっすぐ本殿に向けて続きます。

参道の脇には5つの摂社と3つの末社があります。さすがに大きな神社なのでたくさんありますね。これ以外にも3つの摂社が境内の外にあります。

こうしてみると関西に多い秋葉神社などの神社がなくて東の神様が多いですね。

さらに参道を進むと立派な隋神門をくぐることになります。

隋神門の両脇には二体の随神が収められています。「桜井古水鏡」によると、紀州熊野から天香山命(あめかごやまのみこと)に随行してきた印南鹿神(いなしかしん)を父とする兄弟の神様と言われています。

さあ、隋神門から本殿に向かいます。

境内はとても広くて歴史を感じるというよりはとてもきれいに管理されていることに感心します。
惣兵衛もお参りしますが、普通の「二礼二拍手一礼」ではなく、出雲大社と同じく「二礼四拍手一礼」ですからお気を付けくださいね。

本殿は見ることはできませんでしたが、拝殿では沢山の方々がお祓いを受けていました。

本殿から境内を見渡しますが、先ほどくぐった隋神門など様々な社がきれいに並んでいますよ。

まだまだたくさんの社があるのですが、すべてはご紹介できません。参道を戻ると深い森の中に舞殿があります。

とても神秘的な雰囲気ですよ。

その奥には斎館がありました。

そして最後に宝物殿に寄ります。
中は非公開ですので写真はありませんが、大名などから寄進された名刀の数々が展示されていました。すさまじいものはとてももてそうもない数メートルの日本刀もありました。
それから初代からの天皇陛下の肖像画も展示されていましたよ。
新潟の方々の信仰を集める神社に新潟にお寄りの際はぜひ参拝してくださいね!

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一の鳥居に一礼して参道を進みます。

この神社は弥彦神社とも書かれていますね。新潟の人々には「やひこじんじゃ」と呼ばれることが多いようです。

一の鳥居をくぐったらすぐに参道の足元をきれいな小川が流れています。右側を眺めると丸くアーチを描いた朱色の橋が見えます。これは玉の橋といって、神様が通る橋とされていて、人間はここを通ることを許されません。

広い境内を歩く前にトイレに行きたいと参道を外れて右側にある広場に向かいますが、ここには立派な土俵がありました。
この彌彦神社は「古事記」によると「高倉下」が越後開拓の命を受け、新潟にて産業を振興させて越後国を造った神として弥彦山に「天香山命」として祭神として祀られ、神社を創建されたという歴史があります。
それだけに新潟の人々の信仰を集めている神社なのですね。

100mほど参道を進むと少し開けたところにでます。ここに札所がありました。
その右奥には石で作られた俵が積まれていましたね。

その右奥には大の上に2つの少し大きめの石が2つ並んでいました。

これは火の玉石といわれる石です。別名では「重いの軽いの石」とも呼ばれているそうです。
この石が軽く持ちあがれば願いはかない、重くて持ち上がらなければ願いはかなわないといわれる石で、皆さんそれぞれに持ちあげていました。惣兵衛も持ちあがりましたよ。いいことがあればいいですね。
ここから参道は右に折れて進みます。

ここからは聖域に入るので手水社で身を清めて先に進みます。

また閑静な参道がまっすぐ本殿に向けて続きます。

参道の脇には5つの摂社と3つの末社があります。さすがに大きな神社なのでたくさんありますね。これ以外にも3つの摂社が境内の外にあります。

こうしてみると関西に多い秋葉神社などの神社がなくて東の神様が多いですね。

さらに参道を進むと立派な隋神門をくぐることになります。


隋神門の両脇には二体の随神が収められています。「桜井古水鏡」によると、紀州熊野から天香山命(あめかごやまのみこと)に随行してきた印南鹿神(いなしかしん)を父とする兄弟の神様と言われています。

さあ、隋神門から本殿に向かいます。

境内はとても広くて歴史を感じるというよりはとてもきれいに管理されていることに感心します。
惣兵衛もお参りしますが、普通の「二礼二拍手一礼」ではなく、出雲大社と同じく「二礼四拍手一礼」ですからお気を付けくださいね。

本殿は見ることはできませんでしたが、拝殿では沢山の方々がお祓いを受けていました。

本殿から境内を見渡しますが、先ほどくぐった隋神門など様々な社がきれいに並んでいますよ。

まだまだたくさんの社があるのですが、すべてはご紹介できません。参道を戻ると深い森の中に舞殿があります。

とても神秘的な雰囲気ですよ。

その奥には斎館がありました。

そして最後に宝物殿に寄ります。
中は非公開ですので写真はありませんが、大名などから寄進された名刀の数々が展示されていました。すさまじいものはとてももてそうもない数メートルの日本刀もありました。
それから初代からの天皇陛下の肖像画も展示されていましたよ。
新潟の方々の信仰を集める神社に新潟にお寄りの際はぜひ参拝してくださいね!

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新潟に残る日本指折りの大地主の豪邸に驚く!
2017/08/07 Mon. 14:00 [信越旅行記とお土産]
新潟市の郊外に凄い大きさを誇る歴史ある豪邸があるというのでお邪魔してきました。
現在の名前は北方文化博物館といいます。

正門に設けられた入り口でにゅうかんりょうをお払いして中に入ります。前庭の様子ですがここでも度肝を抜かれました。立派な松が素晴らしい庭です。

正門の脇にはかわいらしい石仏がいくつかこちらを覗いていましたよ。

前庭から正門を見ますが、門というより一つの屋敷のような建物です。それもそのはず、米を大量に蓄えていた蔵でもあったそうです。武家屋敷ならば武者だまりになっていますが、豪商ですので蔵ですね。

前庭の奥には大きくてぜいたくなケヤキをふんだんに使った大玄関があります。これは年間に数回だけくる貴賓を迎えるためだけに作られた玄関だそうです。

玄関の先には贅を尽くした大広間や庭園が見えますが、ここからは入れないので、後ほど紹介しますね。

大玄関から母屋に向かいますが、この屋根のつくりもすさまじいものがありますね。
そもそもこの大豪邸の主人はどんな人だったのでしょうか。
1756年ですから江戸中期の正月。文吉という20歳の若者が一町二反九畝二十九歩(約13,000平米)の畑を与えられ百姓として分家しました。文吉は妻の実家の家業から藍を扱う商売も始め、その利益で田畑を増やしていきます。
そのあとを継いだ2代目文吉は藍だけでなく、雑穀をあつかい、質屋や倉庫業と手を広げ、農業をやめて豪商としての道を歩き始めます。その後、3代目文吉とともに名字帯刀を許され「伊藤文吉」を名乗ることになりました。
明治時代になり、4代目文吉は早逝しますが、跡を継いだ若き5代目文吉は122町歩余(122ha)の田畑の産む財力を元手にこの豪邸を立てることを決心します。工事は明治15年に始まり、明治22年の暮れといいますから、8年間もの時間を費やし現在の屋敷が完成したそうです。その後も土地は増え続け明治34年(1901年)には1,063町歩(1,063ha)というすさまじい大地主となりました。
では、この大豪邸は「伊藤家邸宅跡」などという名勝ではなく博物館になったのか。これはこの石碑が説明してくれます。

伊藤家は栄え続け、京都や奈良に新婚旅行に行くなどしています。世は変わり大正時代に入り、7代目文吉はペンシルバニア大学に留学をします。
ところがここで、日本中の大地主が消滅する大きな出来事が起こります。昭和に入って太平洋戦争による敗戦、そして進駐軍による農地解放令です。大地主の土地は強制徴取され、全て小作農に分割贈与されたのです。
伊藤家にも軍の隠し財産があるという名目でライト中尉が派遣されてきます。ここで奇跡が起こります。ライト中尉は文吉と同じペンシルバニア大学の卒業生で、土地をとられても屋敷を残す方法は博物館として寄付するしかないとアドバイスするのです。文吉はこれに従い、屋敷を寄付し、屋敷の一部で生活を続ける決心をしました。これで、この屋敷は現在まで朽ちることなく保存されたのです。
凄い物語ですね。感激してしまいました。
そんないろいろな歴史を感じながら母屋に歩を進めます。

こちらが文吉たち家族がくつろいだ囲炉裏のある居間でしょうか。

中庭の風情がとても素晴らしいです。その向こうには大玄関のあった大広間が見えますね。


ここには当時使った食器などが展示されていますが、伊万里焼の素晴らしい作品の数々に目を奪われますね。これはこの屋敷で行われた宴席で使われていたもののようです。

その一つがこれですね。長い書物の巻物に見えますが、実はここで行われた三日三晩の結婚式で出された お料理の御品書き だそうです。凄いですね~。
そしてこの建物すさまじさを示すもののひとつがこれです。

上の桁材を見てほしいのですが、なんと18間もある杉の桁です。この巨大な桁を運び入れるために周囲の家を数件壊したというからすさまじいです。
屋敷の裏舞台に移ります。

なぜか国の点々記念物であるトキの剥製が展示されていました。

さらにその先には板ばりの居間と台所と風呂がありました。

沢山の使用人さんたちがここで料理をして、食事を共にされていたのでしょうね。
2階に上がります。

ここは昔は子どもたちの遊び場のようになっていたそうですが、今では様々な道具の展示がありました。この辺りの農村風景が目の前に浮かんできそうです。

さらに、伊藤家に取って最も大事であったろう、土地所有の証書や質の記録など財産に関する目録や書類がたくさん展示されていました。
さあ、いよいよお客さんが使った大広間に移動します。

かなり広い畳の部屋です。テニスコートくらいはありますね。

畳の上に正座して眺める庭園は素晴らしいの一言です。写真には全ては写っていませんが、なんとこの庭の周りに5つの茶室が点在しています。

縁と庭を隔てる雨戸をかける欄間をご覧ください。建物の角に至るまで柱がありません。長大な吊り欄間です。お金がかかっていますね~。
さてさて、母屋から離れて裏庭に出ます。

ここには立派な藤棚がありました。花の咲く春はきれいでしょうね。さらに奥には不思議な建物があります。

鋭角に作られた壁の建物があります。これは三角亭といいます。
京都などで、豪商が遊び心で作ったりされていたようです。


とてもおもしろいです。
このお国は非公開の屋敷がありますが、実はここに元の子の家のある寺である伊藤家の方々がお住いです。この日も少しだけですが、そのお姿を見ることができました。

藤棚の向こうには大きな平屋の建物があります。現在ではレストランとお土産やさんになっていますが、この屋敷を立てるときに、当然腕の良い大工さんがこの辺りにいないので、京都など各地から腕の良い大工さんを8年もの間、住み込みで働いてもらう必要があったのですが、これがその宿舎だったそうです。家を建てる前に大工さん様に家を作ったというから驚きですね。
さらにその奥に立派な蔵があります。

これは集古館といって、伊藤家の集めたお宝が展示されているのです。

家の中にあったように、貴重な焼きものや掛け軸などが展示されているのかなと思ったら、想像をかなり超えていました。
日本の古い仏像だけでなく、世界各地の貴重な遺物がたくさん展示されていました。古代中国やシルクロードに関わる品々、はてはこんなものも・・・・・

エジプトのミイラのマスクです。こんなところに保管していていいものなのでしょうか?

まさに度肝を抜かれた屋敷でしたね。蓮畑が驚きを収めてくれましたよ。
新潟の歴史は関西とはまた違ったもので、興味津々でした。またよく調べて再訪してみたいと思います。
でっかい田んぼで育ったでっかい豪商の屋敷です!

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現在の名前は北方文化博物館といいます。

正門に設けられた入り口でにゅうかんりょうをお払いして中に入ります。前庭の様子ですがここでも度肝を抜かれました。立派な松が素晴らしい庭です。

正門の脇にはかわいらしい石仏がいくつかこちらを覗いていましたよ。

前庭から正門を見ますが、門というより一つの屋敷のような建物です。それもそのはず、米を大量に蓄えていた蔵でもあったそうです。武家屋敷ならば武者だまりになっていますが、豪商ですので蔵ですね。

前庭の奥には大きくてぜいたくなケヤキをふんだんに使った大玄関があります。これは年間に数回だけくる貴賓を迎えるためだけに作られた玄関だそうです。

玄関の先には贅を尽くした大広間や庭園が見えますが、ここからは入れないので、後ほど紹介しますね。

大玄関から母屋に向かいますが、この屋根のつくりもすさまじいものがありますね。
そもそもこの大豪邸の主人はどんな人だったのでしょうか。
1756年ですから江戸中期の正月。文吉という20歳の若者が一町二反九畝二十九歩(約13,000平米)の畑を与えられ百姓として分家しました。文吉は妻の実家の家業から藍を扱う商売も始め、その利益で田畑を増やしていきます。
そのあとを継いだ2代目文吉は藍だけでなく、雑穀をあつかい、質屋や倉庫業と手を広げ、農業をやめて豪商としての道を歩き始めます。その後、3代目文吉とともに名字帯刀を許され「伊藤文吉」を名乗ることになりました。
明治時代になり、4代目文吉は早逝しますが、跡を継いだ若き5代目文吉は122町歩余(122ha)の田畑の産む財力を元手にこの豪邸を立てることを決心します。工事は明治15年に始まり、明治22年の暮れといいますから、8年間もの時間を費やし現在の屋敷が完成したそうです。その後も土地は増え続け明治34年(1901年)には1,063町歩(1,063ha)というすさまじい大地主となりました。
では、この大豪邸は「伊藤家邸宅跡」などという名勝ではなく博物館になったのか。これはこの石碑が説明してくれます。

伊藤家は栄え続け、京都や奈良に新婚旅行に行くなどしています。世は変わり大正時代に入り、7代目文吉はペンシルバニア大学に留学をします。
ところがここで、日本中の大地主が消滅する大きな出来事が起こります。昭和に入って太平洋戦争による敗戦、そして進駐軍による農地解放令です。大地主の土地は強制徴取され、全て小作農に分割贈与されたのです。
伊藤家にも軍の隠し財産があるという名目でライト中尉が派遣されてきます。ここで奇跡が起こります。ライト中尉は文吉と同じペンシルバニア大学の卒業生で、土地をとられても屋敷を残す方法は博物館として寄付するしかないとアドバイスするのです。文吉はこれに従い、屋敷を寄付し、屋敷の一部で生活を続ける決心をしました。これで、この屋敷は現在まで朽ちることなく保存されたのです。
凄い物語ですね。感激してしまいました。
そんないろいろな歴史を感じながら母屋に歩を進めます。

こちらが文吉たち家族がくつろいだ囲炉裏のある居間でしょうか。

中庭の風情がとても素晴らしいです。その向こうには大玄関のあった大広間が見えますね。


ここには当時使った食器などが展示されていますが、伊万里焼の素晴らしい作品の数々に目を奪われますね。これはこの屋敷で行われた宴席で使われていたもののようです。

その一つがこれですね。長い書物の巻物に見えますが、実はここで行われた三日三晩の結婚式で出された お料理の御品書き だそうです。凄いですね~。
そしてこの建物すさまじさを示すもののひとつがこれです。

上の桁材を見てほしいのですが、なんと18間もある杉の桁です。この巨大な桁を運び入れるために周囲の家を数件壊したというからすさまじいです。
屋敷の裏舞台に移ります。

なぜか国の点々記念物であるトキの剥製が展示されていました。

さらにその先には板ばりの居間と台所と風呂がありました。

沢山の使用人さんたちがここで料理をして、食事を共にされていたのでしょうね。
2階に上がります。

ここは昔は子どもたちの遊び場のようになっていたそうですが、今では様々な道具の展示がありました。この辺りの農村風景が目の前に浮かんできそうです。

さらに、伊藤家に取って最も大事であったろう、土地所有の証書や質の記録など財産に関する目録や書類がたくさん展示されていました。
さあ、いよいよお客さんが使った大広間に移動します。

かなり広い畳の部屋です。テニスコートくらいはありますね。

畳の上に正座して眺める庭園は素晴らしいの一言です。写真には全ては写っていませんが、なんとこの庭の周りに5つの茶室が点在しています。

縁と庭を隔てる雨戸をかける欄間をご覧ください。建物の角に至るまで柱がありません。長大な吊り欄間です。お金がかかっていますね~。
さてさて、母屋から離れて裏庭に出ます。

ここには立派な藤棚がありました。花の咲く春はきれいでしょうね。さらに奥には不思議な建物があります。

鋭角に作られた壁の建物があります。これは三角亭といいます。
京都などで、豪商が遊び心で作ったりされていたようです。


とてもおもしろいです。
このお国は非公開の屋敷がありますが、実はここに元の子の家のある寺である伊藤家の方々がお住いです。この日も少しだけですが、そのお姿を見ることができました。

藤棚の向こうには大きな平屋の建物があります。現在ではレストランとお土産やさんになっていますが、この屋敷を立てるときに、当然腕の良い大工さんがこの辺りにいないので、京都など各地から腕の良い大工さんを8年もの間、住み込みで働いてもらう必要があったのですが、これがその宿舎だったそうです。家を建てる前に大工さん様に家を作ったというから驚きですね。
さらにその奥に立派な蔵があります。

これは集古館といって、伊藤家の集めたお宝が展示されているのです。

家の中にあったように、貴重な焼きものや掛け軸などが展示されているのかなと思ったら、想像をかなり超えていました。
日本の古い仏像だけでなく、世界各地の貴重な遺物がたくさん展示されていました。古代中国やシルクロードに関わる品々、はてはこんなものも・・・・・

エジプトのミイラのマスクです。こんなところに保管していていいものなのでしょうか?

まさに度肝を抜かれた屋敷でしたね。蓮畑が驚きを収めてくれましたよ。
新潟の歴史は関西とはまた違ったもので、興味津々でした。またよく調べて再訪してみたいと思います。
でっかい田んぼで育ったでっかい豪商の屋敷です!

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新潟市街地をぶらり歩き
2017/08/07 Mon. 13:00 [信越旅行記とお土産]
新潟にて3日目の早朝です。せっかく新潟市に来たので早朝からぶらり歩きをしてみました。中心市街地から散歩を始めます。
新潟市街地は凄く海に近いのです。まずは海に向かって北上していきますよ。

まず目に入ったのが「新潟懸護国神社」と書かれた石柱です。せっかくですのでお参りに行かねばなりませんね。

さらに歩を進めるとなんとも時間の経過を感じる看板が掲げられた酒屋さんがありました。新潟は米どころであり、酒処ですからね。

楽しく新潟の町の風情を感じながら歩いていると、平らな道が急坂になってきましたよ。海に向かっているのに登っていくなんて面白いです。

そしてこの辺りには新潟大学がありました。その周辺にも付属の小学校や中学校もあって、閑静で快適な住宅街を形成しています。
のんびりと上り坂を登り続けると・・・・

日本海が見えてきました。しかも陸地とはかなりの高度差がありそうです。


すばらしい日本海の展望です。しかもかなり見下ろす感じですね。足元を見てみましたが但馬のような岩の断崖絶壁ではなく、丘陵になっている感じです。
じつはこれが新潟砂丘の一部なのです。新潟県沿岸部に70キロメートル以上続くものです。これは凄く安定した地盤で、昔の新潟市の中心地「新潟町」はこの上にあったそうです。
ところが江戸時代初期に新潟町に繁栄をもたらした信濃川の河口部がすぐ隣接する阿賀野川河口部が大雨による氾濫によって崩壊し、港町として成り立たなくなっため、大規模な河川工事と街割りの見直しが行われ、この高台にあった新潟町は、河口の中州のような島に移転し、その島の周囲を埋め立てするなどして平野部を広げて、現在に至る日本海最大の町として栄えたのです。
この様な街の歴史を持つ街を他に知りません。信濃川と阿賀野川を利用した水運で栄えるとともに、水害との戦いを重ねた町なのですね。

その砂丘のてっぺんには先ほど石柱があった新潟懸護国神社がありますので参拝してくることにします。

太平洋戦争の英霊を祀るだけでなく、戊辰戦争の戦死者も祀られていました。
不勉強であまりしならなかったのですが、新潟では戊辰戦争において有数の激戦があったそうです。新政府軍は東海道と中山道の軍とは別に、日本海側から東北に向かう軍が福井から上越に向かって進軍していました。長岡藩は幕府軍につき、直轄領であった新潟には会津藩と米沢藩が援軍を送りこんでいて、ここに北越戦争が勃発します。
攻めたてる新政府軍に対して、英国のガトリング銃などの近代兵器を備えた長岡藩が奪われた領地を奪回するなど激戦が続きます。一度は押し戻された新政府軍は軍艦を投入するなど形勢を立て直し制海権を奪取し、幕府軍は東北に撤退し、新潟は新政府軍の支配下に置かれた戦いです。
沢山の方々がなくなられたのでしょうね。

参道をさらに奥に進んでいきます。するととても広い境内に出ました。

周りの深い緑と空の青さが気持ちがいいです。

先ずは手水場でしっかりと清めますよ。

拝殿に向かいます。日本と但馬、新潟の平穏を祈りました。
再び新潟市街地に戻ります。長い坂をずるずると降りていきますよ。

ビジネス街に戻りましたが、ここには海抜を示す看板がありました。なんと1メートル。写真がうまく撮れていませんでしたが、この少し先には海抜0メートル地点もありましたよ。
海には砂丘が壁の様に立ちふさがり、川に向けて埋め立てを重ねた繁華街といった感じですね。

まちなかに降りるときにビルの合間に10軒以上のお寺が一線に並んでいる地域があります。これは寺町といって、細長い砂丘のてっぺんに各宗派のお寺が並んでいたのですが、新潟町が平地に移されるにあたって、住民トラブルを避けるために、長細い砂丘の上の街割りを、そのまま中洲の平地に移したためにこうした一直線の寺町ができたそうです。
更に新潟の歴史を感じる街並みがありました。

人情横丁です。
バラックみたいな長屋的な建物に、乾物屋さんや鮮魚やさんもあり、若者の美容院やカフェもある混沌とした街並みです。豊岡市の公設市場に似ていますね。
これを周りの通りから見てみたら、この町の特徴が解ります。

約50メートルの両側は片側2車線、合計4車線の大きな通りになっていますが、真中の2車線を店が占拠している感じになっています。その成り立ちはこれでわかるはずです。

その両端には石柱のような構造物があります。
これは橋の欄干なのです。
この通りは、昔は水路になっていて、自動車時代になって水路が埋め立てられ、大通りにされていましたが、この部分だけは水路の上に板を渡して作られていた店がそのまま残されたのがこの街並みを作っていたのです。
いまでも新潟市民の台所として愛されているようです。

隣接するぷらっと本町商店街は早朝7時から鮮魚や花のお店でにぎわっています。鮮魚やさんもたくさんあって、海鮮丼も早朝からいただけますよ。
本町からもう一度北方面に歩くと、新潟の昔からの花街である古町です。すでに夕食を何度もいただいていますね。
ここには3階建ての木造の巨大な料亭があります。

これは鍋茶屋という、新潟の誇る花街 古町の隆盛ぶりを示す素晴らしい旅館ですね。

なんと3階には他に例をを見ない200畳の大広間があるという、すばらしい建物でありながら、今でも現役の料亭なのです。凄いですね。くわしくは鍋茶屋公式HPをご覧ください。
時を移して信濃川の火口付近の中州に移動しました。ここに柱のようにそびえたつ高層ビルがあります。

朱鷺メッセ展望室 です。最上階の31階は無料で上がれるのでエレベーターで昇りましょう。

最上階のカフェであり展望台ですね。

ここからは新潟の西側。信濃川の上流部を望めます。

先ほどまで歩いていた新潟の市街地も一望できますね。
夕食時間でないので、レストランの方にお願いしてレストランからの展望も見せていただきました。


信濃川が日本海に大河の水を灌ぐ河口の様子が感動的な風景としてみられました。これは凄いですね。
まだまだ、興味をそそられる街ですね。今回はお仕事で短期間でしたが、ゆっくりとお邪魔したいと思いました。
歴史ある個性的で美しい街でしたね!

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新潟市街地は凄く海に近いのです。まずは海に向かって北上していきますよ。

まず目に入ったのが「新潟懸護国神社」と書かれた石柱です。せっかくですのでお参りに行かねばなりませんね。

さらに歩を進めるとなんとも時間の経過を感じる看板が掲げられた酒屋さんがありました。新潟は米どころであり、酒処ですからね。

楽しく新潟の町の風情を感じながら歩いていると、平らな道が急坂になってきましたよ。海に向かっているのに登っていくなんて面白いです。

そしてこの辺りには新潟大学がありました。その周辺にも付属の小学校や中学校もあって、閑静で快適な住宅街を形成しています。
のんびりと上り坂を登り続けると・・・・

日本海が見えてきました。しかも陸地とはかなりの高度差がありそうです。


すばらしい日本海の展望です。しかもかなり見下ろす感じですね。足元を見てみましたが但馬のような岩の断崖絶壁ではなく、丘陵になっている感じです。
じつはこれが新潟砂丘の一部なのです。新潟県沿岸部に70キロメートル以上続くものです。これは凄く安定した地盤で、昔の新潟市の中心地「新潟町」はこの上にあったそうです。
ところが江戸時代初期に新潟町に繁栄をもたらした信濃川の河口部がすぐ隣接する阿賀野川河口部が大雨による氾濫によって崩壊し、港町として成り立たなくなっため、大規模な河川工事と街割りの見直しが行われ、この高台にあった新潟町は、河口の中州のような島に移転し、その島の周囲を埋め立てするなどして平野部を広げて、現在に至る日本海最大の町として栄えたのです。
この様な街の歴史を持つ街を他に知りません。信濃川と阿賀野川を利用した水運で栄えるとともに、水害との戦いを重ねた町なのですね。

その砂丘のてっぺんには先ほど石柱があった新潟懸護国神社がありますので参拝してくることにします。

太平洋戦争の英霊を祀るだけでなく、戊辰戦争の戦死者も祀られていました。
不勉強であまりしならなかったのですが、新潟では戊辰戦争において有数の激戦があったそうです。新政府軍は東海道と中山道の軍とは別に、日本海側から東北に向かう軍が福井から上越に向かって進軍していました。長岡藩は幕府軍につき、直轄領であった新潟には会津藩と米沢藩が援軍を送りこんでいて、ここに北越戦争が勃発します。
攻めたてる新政府軍に対して、英国のガトリング銃などの近代兵器を備えた長岡藩が奪われた領地を奪回するなど激戦が続きます。一度は押し戻された新政府軍は軍艦を投入するなど形勢を立て直し制海権を奪取し、幕府軍は東北に撤退し、新潟は新政府軍の支配下に置かれた戦いです。
沢山の方々がなくなられたのでしょうね。

参道をさらに奥に進んでいきます。するととても広い境内に出ました。

周りの深い緑と空の青さが気持ちがいいです。

先ずは手水場でしっかりと清めますよ。

拝殿に向かいます。日本と但馬、新潟の平穏を祈りました。
再び新潟市街地に戻ります。長い坂をずるずると降りていきますよ。

ビジネス街に戻りましたが、ここには海抜を示す看板がありました。なんと1メートル。写真がうまく撮れていませんでしたが、この少し先には海抜0メートル地点もありましたよ。
海には砂丘が壁の様に立ちふさがり、川に向けて埋め立てを重ねた繁華街といった感じですね。

まちなかに降りるときにビルの合間に10軒以上のお寺が一線に並んでいる地域があります。これは寺町といって、細長い砂丘のてっぺんに各宗派のお寺が並んでいたのですが、新潟町が平地に移されるにあたって、住民トラブルを避けるために、長細い砂丘の上の街割りを、そのまま中洲の平地に移したためにこうした一直線の寺町ができたそうです。
更に新潟の歴史を感じる街並みがありました。

人情横丁です。
バラックみたいな長屋的な建物に、乾物屋さんや鮮魚やさんもあり、若者の美容院やカフェもある混沌とした街並みです。豊岡市の公設市場に似ていますね。
これを周りの通りから見てみたら、この町の特徴が解ります。

約50メートルの両側は片側2車線、合計4車線の大きな通りになっていますが、真中の2車線を店が占拠している感じになっています。その成り立ちはこれでわかるはずです。

その両端には石柱のような構造物があります。
これは橋の欄干なのです。
この通りは、昔は水路になっていて、自動車時代になって水路が埋め立てられ、大通りにされていましたが、この部分だけは水路の上に板を渡して作られていた店がそのまま残されたのがこの街並みを作っていたのです。
いまでも新潟市民の台所として愛されているようです。

隣接するぷらっと本町商店街は早朝7時から鮮魚や花のお店でにぎわっています。鮮魚やさんもたくさんあって、海鮮丼も早朝からいただけますよ。
本町からもう一度北方面に歩くと、新潟の昔からの花街である古町です。すでに夕食を何度もいただいていますね。
ここには3階建ての木造の巨大な料亭があります。

これは鍋茶屋という、新潟の誇る花街 古町の隆盛ぶりを示す素晴らしい旅館ですね。

なんと3階には他に例をを見ない200畳の大広間があるという、すばらしい建物でありながら、今でも現役の料亭なのです。凄いですね。くわしくは鍋茶屋公式HPをご覧ください。
時を移して信濃川の火口付近の中州に移動しました。ここに柱のようにそびえたつ高層ビルがあります。

朱鷺メッセ展望室 です。最上階の31階は無料で上がれるのでエレベーターで昇りましょう。

最上階のカフェであり展望台ですね。

ここからは新潟の西側。信濃川の上流部を望めます。

先ほどまで歩いていた新潟の市街地も一望できますね。
夕食時間でないので、レストランの方にお願いしてレストランからの展望も見せていただきました。


信濃川が日本海に大河の水を灌ぐ河口の様子が感動的な風景としてみられました。これは凄いですね。
まだまだ、興味をそそられる街ですね。今回はお仕事で短期間でしたが、ゆっくりとお邪魔したいと思いました。
歴史ある個性的で美しい街でしたね!

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今回購入した長野のお土産ランキング
2017/07/14 Fri. 07:07 [信越旅行記とお土産]
今回はばたばたでお土産をあまり購入できませんでした。
今回購入したメイドイン長野のお土産のランキングです。
第3位 みすず飴 みすず飴本舗 飯島商店

有名な飴ですね。ゼリーのような感じもします。私の小さいころから変わらないお菓子です。

懐かしさで購入してきました。実はこのお店は上田市に本店があるのです。駅前にある文化財の建物でびっくりしました。他にもいろいろあるので、ゆっくりできるときには試してみたいものがたくさんありました。
第2位 八幡屋礒五郎の唐辛子

とてもおいしいです。間違いないです。でも、京都が近くにあるのでどうしてもって感じがないかな。

詳細は訪問した時の記事をご覧ください。
第1位 どら焼き山 竹風堂
長野の誇る名店ですが、上田市に支店があったのでお邪魔してきました。竹風堂 上田店さんです。

上田駅のロータリー西側にあります。

どら焼き以外にもいろいろあって悩んでしまいそうですが、時間がなかったので代表的などら焼き山(10個 2,268円)を購入しました。

家族の前でお披露目です。

大きなどら焼きですね。

皮はしっとりフックりで甘い香りがして、なんと餡子は栗あんなのです。細かくされた栗がはった栗きんとんみたいです。これは珍しくて、家族全員が大絶賛でした。
惣兵衛がその他に購入するのはわさび漬けと野沢菜漬けですね。蕎麦やおやきは現地でいただくのが一番だと思います。長野は大好きなので何度も行くと思いますから、皆さんのおすすめお土産をお教えくださいね。
ごちそうさまでした。またお邪魔します!

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今回購入したメイドイン長野のお土産のランキングです。
第3位 みすず飴 みすず飴本舗 飯島商店

有名な飴ですね。ゼリーのような感じもします。私の小さいころから変わらないお菓子です。

懐かしさで購入してきました。実はこのお店は上田市に本店があるのです。駅前にある文化財の建物でびっくりしました。他にもいろいろあるので、ゆっくりできるときには試してみたいものがたくさんありました。
第2位 八幡屋礒五郎の唐辛子

とてもおいしいです。間違いないです。でも、京都が近くにあるのでどうしてもって感じがないかな。

詳細は訪問した時の記事をご覧ください。
第1位 どら焼き山 竹風堂
長野の誇る名店ですが、上田市に支店があったのでお邪魔してきました。竹風堂 上田店さんです。

上田駅のロータリー西側にあります。

どら焼き以外にもいろいろあって悩んでしまいそうですが、時間がなかったので代表的などら焼き山(10個 2,268円)を購入しました。

家族の前でお披露目です。

大きなどら焼きですね。

皮はしっとりフックりで甘い香りがして、なんと餡子は栗あんなのです。細かくされた栗がはった栗きんとんみたいです。これは珍しくて、家族全員が大絶賛でした。
惣兵衛がその他に購入するのはわさび漬けと野沢菜漬けですね。蕎麦やおやきは現地でいただくのが一番だと思います。長野は大好きなので何度も行くと思いますから、皆さんのおすすめお土産をお教えくださいね。
ごちそうさまでした。またお邪魔します!


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