80代半ばの義父と一緒に竹田城跡登山は大変でしたが感動的でした ~国史跡 竹田城氏 朝来市朝来
2023/11/09 Thu. 06:00 [但馬の歴史遺構]
出石散策の翌日は日本の歴史が大好きな義父のために朝来市にお邪魔しようと思いました。面白い体験として生野銀山を目指すことにします。足の弱い義母は妻と着物を観に妻と丹後ツアー。2手に分かれることにしました。
生野に向かいますが、途中で竹田城の姿でも見せてあげようと、とりあえず竹田城跡の登山口にあたる、道の駅 山城の郷にお邪魔しました。

竹田城跡は惣兵衛は大好きな場所なのですが、混み合っていていけないだろうとずっと敬遠しておりました。しかしながら、竹田城跡は全国的に知名度が高いので、ちょっとだけ義父に見せてあげようと、とりあえずここまで登ってみました。下の方の駐車場で止められたらUターンして帰るつもりでしたが、なんと一番上の駐車場に駐車できて、登山バスの発車5分前。しかも行列は20名程度。
義父に「行ってみます?」とお聞きしたら、「行ってみよう!」とおっしゃられるので、予定変更で竹田城跡に登ることにしました。

こちらが天空バスです。JR竹田駅→道の駅 山城の郷→竹田城跡→町中駐車場→JR竹田駅と、ぐるりと周回するバスです。

バスに乗って出発です。義父は優先座席に座れてよかったです。10分ほどで竹田城跡バス停に到着。

バス停から竹田城跡大手門前までは900mの舗装路です。義父ならば歩けると思ったら・・・。
「ゼイ、ゼイ、ゼイ・・・・」 (汗)
これはまずい・・・。やめようかと思いましたが、義父は頑張るとのこと。80代半ばの父にはこの坂はきつかったようです。これから石垣の石段があるのですが・・・。

途中で落ちない岩があったりして、歴史の話やいろいろな話をしてみましたが、父の息が・・・。でも、ゆっくり途中で休憩を取りながら進みます。

大手門前をすぎて石段になりますが、義父は頑張ります。危険な場所は惣兵衛が肩をお貸ししてゆっくり進みます。

頑張りました。竹田城跡で最も広い曲輪である千畳敷で大休憩です。断崖絶壁の石垣に父も驚きを隠せません。

このあとゆっくり竹田城跡やそこから見下ろす風景を楽しみました。さすがに天守閣は危険なのでのぼるのをめましたが・・・。
惣兵衛にとっても2014年以来の竹田城跡です。

この後の下りの石段が大変で、惣兵衛が何とかアシストして安全に降り切り、そのあとバス停へ。ちょうどバスが到着したので、またもや義父には優先席に座ってもらって道の駅 山城の郷に停めた車に乗り込めました。
この後はさすがに歩かせるわけにいかないので、反対の山にある展望台の立雲狭は諦めます。

その代わりに、その山に登る県道から絶景を見てもらいました。
この先、生野銀山まで行こうかと思いましたが、時間も遅いし、父の体力を考えて中止。

朝来市の上八代地区集会場にお邪魔しました。

ここで義父も大好物の黒豆の枝豆を購入しました。こんなところで売っているのかと笑顔でした。
地域の方にお聞きすると、これで最後の枝豆ということでした。
「また来年お会いしましょう!」と再会を誓い合って、お別れしました。
とにかく義父は頑張り屋さんでした。もう竹田城はこれから登れないかもしれませんが、記念になったし、自信がついて喜んでくださいました。
ありがとうございました。またお邪魔します

にほんブログ村 ←80歳を超えて、急な坂を上り切った義父に、応援クリックお願いします。励みになります!
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生野に向かいますが、途中で竹田城の姿でも見せてあげようと、とりあえず竹田城跡の登山口にあたる、道の駅 山城の郷にお邪魔しました。

竹田城跡は惣兵衛は大好きな場所なのですが、混み合っていていけないだろうとずっと敬遠しておりました。しかしながら、竹田城跡は全国的に知名度が高いので、ちょっとだけ義父に見せてあげようと、とりあえずここまで登ってみました。下の方の駐車場で止められたらUターンして帰るつもりでしたが、なんと一番上の駐車場に駐車できて、登山バスの発車5分前。しかも行列は20名程度。
義父に「行ってみます?」とお聞きしたら、「行ってみよう!」とおっしゃられるので、予定変更で竹田城跡に登ることにしました。

こちらが天空バスです。JR竹田駅→道の駅 山城の郷→竹田城跡→町中駐車場→JR竹田駅と、ぐるりと周回するバスです。

バスに乗って出発です。義父は優先座席に座れてよかったです。10分ほどで竹田城跡バス停に到着。

バス停から竹田城跡大手門前までは900mの舗装路です。義父ならば歩けると思ったら・・・。
「ゼイ、ゼイ、ゼイ・・・・」 (汗)
これはまずい・・・。やめようかと思いましたが、義父は頑張るとのこと。80代半ばの父にはこの坂はきつかったようです。これから石垣の石段があるのですが・・・。

途中で落ちない岩があったりして、歴史の話やいろいろな話をしてみましたが、父の息が・・・。でも、ゆっくり途中で休憩を取りながら進みます。

大手門前をすぎて石段になりますが、義父は頑張ります。危険な場所は惣兵衛が肩をお貸ししてゆっくり進みます。

頑張りました。竹田城跡で最も広い曲輪である千畳敷で大休憩です。断崖絶壁の石垣に父も驚きを隠せません。

このあとゆっくり竹田城跡やそこから見下ろす風景を楽しみました。さすがに天守閣は危険なのでのぼるのをめましたが・・・。
惣兵衛にとっても2014年以来の竹田城跡です。

この後の下りの石段が大変で、惣兵衛が何とかアシストして安全に降り切り、そのあとバス停へ。ちょうどバスが到着したので、またもや義父には優先席に座ってもらって道の駅 山城の郷に停めた車に乗り込めました。
この後はさすがに歩かせるわけにいかないので、反対の山にある展望台の立雲狭は諦めます。

その代わりに、その山に登る県道から絶景を見てもらいました。
この先、生野銀山まで行こうかと思いましたが、時間も遅いし、父の体力を考えて中止。

朝来市の上八代地区集会場にお邪魔しました。

ここで義父も大好物の黒豆の枝豆を購入しました。こんなところで売っているのかと笑顔でした。
地域の方にお聞きすると、これで最後の枝豆ということでした。
「また来年お会いしましょう!」と再会を誓い合って、お別れしました。
とにかく義父は頑張り屋さんでした。もう竹田城はこれから登れないかもしれませんが、記念になったし、自信がついて喜んでくださいました。
ありがとうございました。またお邪魔します


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今年は地域も我が家も景気が良く豊かな年になりますように ~但馬七福神巡り その3~西谷山 蓮華寺 養父市大屋町
2023/01/08 Sun. 06:00 [但馬の歴史遺構]
妙見山 日光院を後にしましたが、お参りの受付が終わる5時には少し時間がありました。そこでさらに車を南に向けて大屋町方面に。
夏梅という小さな地区のてっぺんにある西山寺 蓮華寺に到着しました。

石垣といい、構えはとても素晴らしいのですが、ブロックとトタン屋根の建物があって、少し戸惑いました。

駐車場は急な坂道の途中に一台だけ停められます。その先の橋は穴が開いていてとても危険ですので、絶対にお寺から先にはいかないようにしましょう(汗)

石段の左側には六地蔵がおられました。前掛けもきれいで、ユリの花も手向けられ、大切にされている様子がわかります。思わず手を合わせてから石段を上がることにしました。

石段を上がります。

石段の踊り場の右側にはたくさんのお地蔵さんがおられました。こちらは地蔵堂で子育て祈願と水子供養をされているようです。
蓮華寺の境内には品種が特定できず新種といわれている桜の木があります。別名「子宝桜」。根元から次から次へと新しい芽が出て来くるそうです。蓮華寺は女性に対して良縁・子宝・安産。小児無事成長・夫婦円満にご利益があるといわれています。

こちらが蓮華寺の境内です。写真には写っていませんが手前に庫裡があります。それほど大きな境内ではないのですが、歴史的な意味や造りのすばらしさから市の文化財に指定されています。

ひときわ目を引くのがこの朱塗りの建物です。赤堂といいます。
実はこのお寺は築城の名手といわれた戦国武将 藤堂高虎との関係がとても深いお寺なのだそうです。藤堂高虎は近江の生まれで浅井長政に仕えていました。その後、羽柴秀長に仕え、但馬攻めや三木攻めなどで戦功をあげ、この地に栃尾谷城と本居館を築いたとされます。
栃尾谷城は田和城と改名し、このお寺の少し先にある川に張り出した場所にありました。本居館が今の蓮華寺の場所で、もともと蓮華寺は別の場所にあったものを、高虎がこの地にこの赤堂を移して本居館を蓮華寺としたそうです。
藤堂高虎はこの地で結婚し、この地から立身出世を遂げたことから、蓮華寺は良縁・夫婦円満・立身出世にご縁のあるお寺といわれているそうです。
こちらのお寺も日光院と同じく高野山真言宗のお寺です。

境内の角に護摩堂と鐘楼堂があります。

今回の目的の七福神の恵比寿神は境内の真ん中におわしました。またまた予想を裏切られて5体でした。

本堂から赤堂をつなぐ渡り廊下がありますが、その向こうには小さいけれど素敵な庭園がありました。

庭園の斜面の上には小さな建物があります。こちらが薬師如来様をお守りする域外堂かな?

さあ、いよいよ本堂に向かいます。立派な建物ですが少し老朽化が進んでいます。ガラス窓の向こうにはほかのお寺では見たことのないような金色や銀色を使ったり、非常にカラフルな色調を使った御朱印が並んでいます。
しかしながら誰もおられません。

公式インスタグラムへの案内もありましたが、どうやってお願いしたらいいか全くわかりません。書いてあった携帯電話にも連絡しますが通じません。
思い余って庫裡にお邪魔しました。残念ながら住職様はご不在でしばらく帰ってこられない様子。また、電話をしてから出直すことにしました。
でも、後でネットで調べたのですが、ネットで受け付けられているそうです。しかも、直接お願いするのと同じようにするために、郵送費も無料だとか。(ここをクリック)
ちょっと驚きの展開でした。次はどこに行こうかな?

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夏梅という小さな地区のてっぺんにある西山寺 蓮華寺に到着しました。

石垣といい、構えはとても素晴らしいのですが、ブロックとトタン屋根の建物があって、少し戸惑いました。

駐車場は急な坂道の途中に一台だけ停められます。その先の橋は穴が開いていてとても危険ですので、絶対にお寺から先にはいかないようにしましょう(汗)

石段の左側には六地蔵がおられました。前掛けもきれいで、ユリの花も手向けられ、大切にされている様子がわかります。思わず手を合わせてから石段を上がることにしました。

石段を上がります。

石段の踊り場の右側にはたくさんのお地蔵さんがおられました。こちらは地蔵堂で子育て祈願と水子供養をされているようです。
蓮華寺の境内には品種が特定できず新種といわれている桜の木があります。別名「子宝桜」。根元から次から次へと新しい芽が出て来くるそうです。蓮華寺は女性に対して良縁・子宝・安産。小児無事成長・夫婦円満にご利益があるといわれています。

こちらが蓮華寺の境内です。写真には写っていませんが手前に庫裡があります。それほど大きな境内ではないのですが、歴史的な意味や造りのすばらしさから市の文化財に指定されています。

ひときわ目を引くのがこの朱塗りの建物です。赤堂といいます。
実はこのお寺は築城の名手といわれた戦国武将 藤堂高虎との関係がとても深いお寺なのだそうです。藤堂高虎は近江の生まれで浅井長政に仕えていました。その後、羽柴秀長に仕え、但馬攻めや三木攻めなどで戦功をあげ、この地に栃尾谷城と本居館を築いたとされます。
栃尾谷城は田和城と改名し、このお寺の少し先にある川に張り出した場所にありました。本居館が今の蓮華寺の場所で、もともと蓮華寺は別の場所にあったものを、高虎がこの地にこの赤堂を移して本居館を蓮華寺としたそうです。
藤堂高虎はこの地で結婚し、この地から立身出世を遂げたことから、蓮華寺は良縁・夫婦円満・立身出世にご縁のあるお寺といわれているそうです。
こちらのお寺も日光院と同じく高野山真言宗のお寺です。

境内の角に護摩堂と鐘楼堂があります。

今回の目的の七福神の恵比寿神は境内の真ん中におわしました。またまた予想を裏切られて5体でした。

本堂から赤堂をつなぐ渡り廊下がありますが、その向こうには小さいけれど素敵な庭園がありました。

庭園の斜面の上には小さな建物があります。こちらが薬師如来様をお守りする域外堂かな?

さあ、いよいよ本堂に向かいます。立派な建物ですが少し老朽化が進んでいます。ガラス窓の向こうにはほかのお寺では見たことのないような金色や銀色を使ったり、非常にカラフルな色調を使った御朱印が並んでいます。
しかしながら誰もおられません。

公式インスタグラムへの案内もありましたが、どうやってお願いしたらいいか全くわかりません。書いてあった携帯電話にも連絡しますが通じません。
思い余って庫裡にお邪魔しました。残念ながら住職様はご不在でしばらく帰ってこられない様子。また、電話をしてから出直すことにしました。
でも、後でネットで調べたのですが、ネットで受け付けられているそうです。しかも、直接お願いするのと同じようにするために、郵送費も無料だとか。(ここをクリック)
ちょっと驚きの展開でした。次はどこに行こうかな?

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今年は地域も我が家も景気が良く豊かな年になりますように ~但馬七福神巡り その2~妙見山 日光院 養父市八鹿町
2023/01/07 Sat. 06:00 [但馬の歴史遺構]
但馬七福神巡りで2番目の目的地に選んだのが養父市八鹿の国の重要文化財に選ばれている名草神社の山の麓にある妙見山 日光院です。

名草神社に向かう谷あいの道をすすむと石原という、日当たりが良い山間の集落に到着します。

その集落の一番高いところに妙見山 日光院があります。

高い石垣の上に白壁を配した城郭のような建物です。

豪華さはないものの、凛とした感じで見下ろすような立派な山門が迎えてくれます。

もう一段上がったところに護摩堂があります。本堂のように見えますが、これがちょっと面白いこのお寺の特徴でもあります。また後で説明します。
左には大きないちょうの木が立っています。これは樹齢600年といわれる大イチョウで、秋には境内を黄色く絨毯のように染めるようです。
そして、お寺の白い幕には7つの黒丸を遠景に並べた寺紋がありますが、これが七曜紋といわれ、北斗七星を表しているそうです。この北斗七星を仏とした妙見大菩薩様をご本尊として祀るお寺です。
つまり妙見信仰のお寺です。このお寺は飛鳥時代に開山され、但馬における妙見信仰の中心地として厚く信仰を集め、栄えました。山名宗全も戦勝祈念に訪れたそうです。このお寺のある山全体は昔は石原山といわれましたが、妙見山といわれるようになったそうです。
その後、豊臣秀吉の但馬攻めの際に戦火にあい、いったん廃れますが、高野山から構想を迎え復興を果たします。そして、今の名草神社の地に奥の院を造営しました。
時は移り、明治時代に入り廃仏毀釈が行われ、日光院の奥の院を名草神社とし、全てを名草神社に移すように命令が下されたそうです。妙見信仰が廃れることを恐れた信徒のみなさんは、奥の院から日光院の成就院にあらゆる仏像、経典などを移して、現在の妙高山 日光院として残されたそうです。
私の地区も昔は妙見信仰が盛んで山の頂上に祀られていたそうですが、この時代に神社とされたと聞いています。妙見信仰にとってはとんでもない時代だったのです。

護摩堂で一心に手を合わせお祈りしました。周りを見渡すとおみくじなどがあります。でも、御朱印などはないようです。

護摩堂を離れて境内の右側に向かいます。写真の右側にあるのが薬師堂です。立派な建物です。

その脇にはお地蔵さんがずらりと並んでおられました。

そしてその左側の境内に片隅に、今回の目的である招福弁天堂がありました。残念ながら弁天様のお顔を見ることはできませんでしたが、ろうそくをともし、線香を挙げさせていただきました。
しかし、ここにも御朱印はありません。どこにあるのでしょうか。

今度は境内の反対側に向かいます。

そこには鐘楼がありました。

そして小さな庭のようになっている場所には2つのお地蔵さんがおられました。一つはお助け地蔵というお地蔵さんです。このお地蔵さんは日光院第五十三世光裕上人を記念して建てられたものだそうです。上人は29歳の高野山大学で学ばれていた時に、阪神大震災が発生し、被災地に赴き一心に人々に救いの手を差し伸べられたそうです。しかしながら30歳でお亡くなりになられたそうです。一緒に活動されていた彫刻家の岡倉氏が、その姿をこの地蔵に刻まれたのがこのお地蔵さんということです。(涙)

こちらの建物が庫裡のようです。近くにお二人のお年寄りがおられたので、声をかけますと、ご朱印状は庫裡の中にあると案内いただきました。

こちらにありました。

これが妙見山 日光院 但馬七福神の御朱印です。
御朱印を頂き、もう一度境内に戻ります。

このように奥の薬師堂から護摩堂、そして栗に向かって渡り廊下がありますが、これは幸せの道と名付けられていました。今は傷みが激しく幕でおおわれていますが、境内にあった十数本の巨木が倒れそうになったので、それを伐採し、制裁して、こちらの修復に使われるそうです。修復が完成したまたお邪魔したいものです。
そして、その渡り廊下の近くに鳥居がありました。

渡り廊下の向こう側に小さな稲荷社がありました。もちろん、商売繁盛を願ってお祈りを捧げます。
この時、気が付いたのですが、護摩堂の奥の一段高いところにりっぱな建物があります。早速見に行くことにしました。

立派な石垣の上にひときわ素晴らしい建物です。

こちらは妙見尊本殿といい、秘仏であるご本尊の妙見菩薩が祀られています。

この妙見尊本殿と護摩堂の並び方がとても興味深いものです。まるで神社の本殿と拝殿のような関係なのです。護摩堂からは窓からこちらの本殿が見られるようになっていて、密教宗教の護摩祈祷が行われるようです。私のような知識のないものにはわかりませんが、また調べて学んでみたいと思います。

しかも、本殿に施された彫刻の見事なことには驚きました。他の方のブログによると丹波国柏原の彫刻師一族である中井権次の作品だとか。但馬にはこうした素晴らしい彫刻の名作がふとしたところにあるのですごいです。

こちらの妙見山 日光院の歴史は、惣兵衛が語るような一筋縄でいかないものがありますので、詳しくはこちらの説明看板をご覧ください。


帰りに駐車場の脇にある日本一ミニ博物館を見学しようと思いましたが、この日は閉館されていました。興味のある方は2017年の大雪の時に訪問した時の様子をご覧ください。
ようやく2件目の七福神巡りです。次はどこに行こうかな?

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名草神社に向かう谷あいの道をすすむと石原という、日当たりが良い山間の集落に到着します。

その集落の一番高いところに妙見山 日光院があります。

高い石垣の上に白壁を配した城郭のような建物です。

豪華さはないものの、凛とした感じで見下ろすような立派な山門が迎えてくれます。

もう一段上がったところに護摩堂があります。本堂のように見えますが、これがちょっと面白いこのお寺の特徴でもあります。また後で説明します。
左には大きないちょうの木が立っています。これは樹齢600年といわれる大イチョウで、秋には境内を黄色く絨毯のように染めるようです。
そして、お寺の白い幕には7つの黒丸を遠景に並べた寺紋がありますが、これが七曜紋といわれ、北斗七星を表しているそうです。この北斗七星を仏とした妙見大菩薩様をご本尊として祀るお寺です。
つまり妙見信仰のお寺です。このお寺は飛鳥時代に開山され、但馬における妙見信仰の中心地として厚く信仰を集め、栄えました。山名宗全も戦勝祈念に訪れたそうです。このお寺のある山全体は昔は石原山といわれましたが、妙見山といわれるようになったそうです。
その後、豊臣秀吉の但馬攻めの際に戦火にあい、いったん廃れますが、高野山から構想を迎え復興を果たします。そして、今の名草神社の地に奥の院を造営しました。
時は移り、明治時代に入り廃仏毀釈が行われ、日光院の奥の院を名草神社とし、全てを名草神社に移すように命令が下されたそうです。妙見信仰が廃れることを恐れた信徒のみなさんは、奥の院から日光院の成就院にあらゆる仏像、経典などを移して、現在の妙高山 日光院として残されたそうです。
私の地区も昔は妙見信仰が盛んで山の頂上に祀られていたそうですが、この時代に神社とされたと聞いています。妙見信仰にとってはとんでもない時代だったのです。

護摩堂で一心に手を合わせお祈りしました。周りを見渡すとおみくじなどがあります。でも、御朱印などはないようです。

護摩堂を離れて境内の右側に向かいます。写真の右側にあるのが薬師堂です。立派な建物です。

その脇にはお地蔵さんがずらりと並んでおられました。

そしてその左側の境内に片隅に、今回の目的である招福弁天堂がありました。残念ながら弁天様のお顔を見ることはできませんでしたが、ろうそくをともし、線香を挙げさせていただきました。
しかし、ここにも御朱印はありません。どこにあるのでしょうか。

今度は境内の反対側に向かいます。

そこには鐘楼がありました。

そして小さな庭のようになっている場所には2つのお地蔵さんがおられました。一つはお助け地蔵というお地蔵さんです。このお地蔵さんは日光院第五十三世光裕上人を記念して建てられたものだそうです。上人は29歳の高野山大学で学ばれていた時に、阪神大震災が発生し、被災地に赴き一心に人々に救いの手を差し伸べられたそうです。しかしながら30歳でお亡くなりになられたそうです。一緒に活動されていた彫刻家の岡倉氏が、その姿をこの地蔵に刻まれたのがこのお地蔵さんということです。(涙)

こちらの建物が庫裡のようです。近くにお二人のお年寄りがおられたので、声をかけますと、ご朱印状は庫裡の中にあると案内いただきました。

こちらにありました。

これが妙見山 日光院 但馬七福神の御朱印です。
御朱印を頂き、もう一度境内に戻ります。

このように奥の薬師堂から護摩堂、そして栗に向かって渡り廊下がありますが、これは幸せの道と名付けられていました。今は傷みが激しく幕でおおわれていますが、境内にあった十数本の巨木が倒れそうになったので、それを伐採し、制裁して、こちらの修復に使われるそうです。修復が完成したまたお邪魔したいものです。
そして、その渡り廊下の近くに鳥居がありました。

渡り廊下の向こう側に小さな稲荷社がありました。もちろん、商売繁盛を願ってお祈りを捧げます。
この時、気が付いたのですが、護摩堂の奥の一段高いところにりっぱな建物があります。早速見に行くことにしました。

立派な石垣の上にひときわ素晴らしい建物です。

こちらは妙見尊本殿といい、秘仏であるご本尊の妙見菩薩が祀られています。

この妙見尊本殿と護摩堂の並び方がとても興味深いものです。まるで神社の本殿と拝殿のような関係なのです。護摩堂からは窓からこちらの本殿が見られるようになっていて、密教宗教の護摩祈祷が行われるようです。私のような知識のないものにはわかりませんが、また調べて学んでみたいと思います。

しかも、本殿に施された彫刻の見事なことには驚きました。他の方のブログによると丹波国柏原の彫刻師一族である中井権次の作品だとか。但馬にはこうした素晴らしい彫刻の名作がふとしたところにあるのですごいです。

こちらの妙見山 日光院の歴史は、惣兵衛が語るような一筋縄でいかないものがありますので、詳しくはこちらの説明看板をご覧ください。


帰りに駐車場の脇にある日本一ミニ博物館を見学しようと思いましたが、この日は閉館されていました。興味のある方は2017年の大雪の時に訪問した時の様子をご覧ください。
ようやく2件目の七福神巡りです。次はどこに行こうかな?

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今年は地域も我が家も景気が良く豊かな年になりますように ~但馬七福神巡り その1~布金山長者峰 隆国寺 日高町
2023/01/06 Fri. 06:00 [但馬の歴史遺構]
但馬の正月の迎え方の楽しみといえば但馬五社めぐりです。
豊岡市気比 式内社 絹巻神社
豊岡市小田井 式内社 小田井縣神社
豊岡市出石町 一宮 出石神社
養父市養父市場 式内社 養父神社
朝来市山東町 一宮 粟鹿神社
の5社を参拝するのですが、惣兵衛一家は親父殿が天国に召されたので喪中で参拝できません。そこで今回はお寺を巡る但馬七福神巡りをすることにしました。
詳しくはこちらのHPをご覧ください。
但馬の広い地域に散らばっているので、数日に分けてお参りすることにしました。まず最初にお邪魔したのが豊岡市日高町荒川にある布金山長者峰 隆国寺です。
こちらのお寺は曹洞宗のお寺で、ご本尊は聖観世音菩薩です。室町時代に但馬を本拠に隆盛を誇った山名家の四天王の筆頭として活躍した垣屋氏の菩提寺として阿瀬金山に建立されました。当時は金の産出が多く、垣屋氏の本城は近くにある道場の山中にあり、山名家の財政を支えた阿瀬金山を守護されていたのだと思います。
実質開祖といわれるのは武将の垣屋光成(隆国)。彼の没後の江戸時代に入って現在の場所に移転したといわれています。

立派な門構えです。総門には提灯が灯されています。こちらにお金を入れる箱があるのですが、今では本堂横の社務所にて拝観料300円を納めるようになっているのでご注意ください。

但馬では有数の美しさと規模を誇る山門が迎えてくれます。素晴らしい造りですね。

本堂の前から山門の後ろを撮影してみました。すっきりしてとても雰囲気の良い境内ですね。
こちらは本堂の右にある社務所です。

こちらで拝観料は納めましょう。内部を初めてみましたが、カラフルなお札などがたくさん並んでいました。

さあ、本堂にお参りします。

さすがに内部を撮影するのははばかれましたが、とても素晴らしい本堂です。障壁画は岸派によるもので心打たれるものがあります。

本堂の脇にある通路の角に目的の布袋尊が笑顔で迎えてくださいました。ありがたや、ありがたや。


本堂の右奥には2面がガラス張りの小部屋があって、こちらから立派な庭園が眺められます。今は冬ですので静かな庭ですが、春夏秋と素晴らしい変化を見せてくれる庭です。

本堂を出て裏庭に回ります。歩きやすい整備された小道になっていて、脇にはまだ蕾の牡丹がたくさん並んでいます。

裏庭から庭園と本堂を眺めます。こちらから見てもいい感じですね。

正面に帰ってくると石垣が高く積まれた上に立つ鐘楼が見えます。但馬ではこんな立派な鐘楼はそんなに多くありません。かっこいいですね。

その足元には広い敷地に花の庭園があります。こちらはぼたん苑。境内には70種1,000株の牡丹が植えられています。開祖が遣明使節団の団長の策彦和尚から、中国から持ち帰った牡丹を贈られたのが隆国寺と牡丹の円の始まりとされ、「たじまぼたん寺」とも呼ばれ親しまれています。
このことから但馬七花寺霊場、そして。関西花の寺二十五カ所6番として親しまれています。
惣兵衛も、以前、花の寺巡りでお参りしたことがあります。

今回は但馬七福神めぐりの御朱印を頂きました。
皆さんはいい初夢を見ましたか?

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豊岡市小田井 式内社 小田井縣神社
豊岡市出石町 一宮 出石神社
養父市養父市場 式内社 養父神社
朝来市山東町 一宮 粟鹿神社
の5社を参拝するのですが、惣兵衛一家は親父殿が天国に召されたので喪中で参拝できません。そこで今回はお寺を巡る但馬七福神巡りをすることにしました。
詳しくはこちらのHPをご覧ください。
但馬の広い地域に散らばっているので、数日に分けてお参りすることにしました。まず最初にお邪魔したのが豊岡市日高町荒川にある布金山長者峰 隆国寺です。
こちらのお寺は曹洞宗のお寺で、ご本尊は聖観世音菩薩です。室町時代に但馬を本拠に隆盛を誇った山名家の四天王の筆頭として活躍した垣屋氏の菩提寺として阿瀬金山に建立されました。当時は金の産出が多く、垣屋氏の本城は近くにある道場の山中にあり、山名家の財政を支えた阿瀬金山を守護されていたのだと思います。
実質開祖といわれるのは武将の垣屋光成(隆国)。彼の没後の江戸時代に入って現在の場所に移転したといわれています。

立派な門構えです。総門には提灯が灯されています。こちらにお金を入れる箱があるのですが、今では本堂横の社務所にて拝観料300円を納めるようになっているのでご注意ください。

但馬では有数の美しさと規模を誇る山門が迎えてくれます。素晴らしい造りですね。

本堂の前から山門の後ろを撮影してみました。すっきりしてとても雰囲気の良い境内ですね。
こちらは本堂の右にある社務所です。

こちらで拝観料は納めましょう。内部を初めてみましたが、カラフルなお札などがたくさん並んでいました。

さあ、本堂にお参りします。

さすがに内部を撮影するのははばかれましたが、とても素晴らしい本堂です。障壁画は岸派によるもので心打たれるものがあります。

本堂の脇にある通路の角に目的の布袋尊が笑顔で迎えてくださいました。ありがたや、ありがたや。


本堂の右奥には2面がガラス張りの小部屋があって、こちらから立派な庭園が眺められます。今は冬ですので静かな庭ですが、春夏秋と素晴らしい変化を見せてくれる庭です。

本堂を出て裏庭に回ります。歩きやすい整備された小道になっていて、脇にはまだ蕾の牡丹がたくさん並んでいます。

裏庭から庭園と本堂を眺めます。こちらから見てもいい感じですね。

正面に帰ってくると石垣が高く積まれた上に立つ鐘楼が見えます。但馬ではこんな立派な鐘楼はそんなに多くありません。かっこいいですね。

その足元には広い敷地に花の庭園があります。こちらはぼたん苑。境内には70種1,000株の牡丹が植えられています。開祖が遣明使節団の団長の策彦和尚から、中国から持ち帰った牡丹を贈られたのが隆国寺と牡丹の円の始まりとされ、「たじまぼたん寺」とも呼ばれ親しまれています。
このことから但馬七花寺霊場、そして。関西花の寺二十五カ所6番として親しまれています。
惣兵衛も、以前、花の寺巡りでお参りしたことがあります。

今回は但馬七福神めぐりの御朱印を頂きました。
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13年ぶりに円山応挙の名画に出会える特別展示中です ~亀居山 大乗寺 香美町香住
2022/11/17 Thu. 06:00 [但馬の歴史遺構]
香住でおいしいランチを頂いたら、せっかくなので霞を楽しみたいところです。ところがあいにくの天気で、これから雨が降る予報。そこで妻が大乗寺で特別展示をしているらしいよとの情報。
それは素晴らしいと、早速行ってまいりました。

亀居山 大乗寺です。高野山真言宗のお寺です。
このお寺は745年(天平17年)に行基が自ら堀った聖観音を本尊として創建したそうです。その後、戦乱により衰退しますが、江戸時代後期の寛政年間(1700年代後半)に当時の住職 密蔵上人により再興され、今に至るそうです。
先日紹介した比曽寺もそうですが、天平時代に創建された歴史あるお寺が但馬には多いのです。

石段を上がると大きくて美しい山門が覆いかぶさるように迎えてくれます。

山門に施された彫刻は精緻で美しいものです。

但馬のお寺としては珍しい、お城のような石垣があり、そこには秋を告げる真っ赤なもみじがありました。美しいですね。

山門をくぐると本堂です。こちらも立派な建物です。

今は閉鎖されている正面玄関には円山応挙の像があります。穏やかな表情が印象的です。
円山応挙と大乗寺の関係ですが、大乗寺を復興させた蜜蔵上人は京都を訪問していた時に、当時はまだ無名だった円山応挙に出会ったそうです。応挙は農家の生まれで貧しかったのですが、蜜蔵上人がその才能を認め、銀三貫目を与え、それを元手に応挙は江戸で学んだそうです。その後、応挙は大成し、弟子12名とともに、大乗寺の大修復作業に当たり恩に報いるべく、当地に滞在して多くの襖絵などを制作したそうです。

こちらの玄関からは撮影禁止ですので皆さんに素晴らしい襖絵や掛け軸などをご紹介できません。詳細は大乗寺公式HPをご覧ください。
円山応挙の障壁画特別公開は襖絵をデジタルスキャンしてデジタルデータで残すプロジェクトが終了したのにあたり、2023年3月15日まで、円山応挙直筆の「孔雀の間」「芭蕉の間」「山水の間」を見ることができます。是非とも行ってみてください。
神戸新聞の記事もありますのでどうぞ。
季節柄、大丈夫だと思いますが、大乗寺は半ズボンや短いスカートは入場禁止だったと思いますのでご注意を。

ガイドさんにこんな素敵な裏庭を見せていただけました。
本堂を出ます。

本堂の前にはこのお寺をずっと見守ってきただろうと思われる大木がそびえます。

鐘楼も大きなもので、鐘の大きさも立派でした。

さらに北の奥に進むと観音堂と薬師堂がありました。そのさらに奥には応挙の絵が収蔵されている収蔵庫もあります。春と秋に限定で公開されるそうなので、また来春にでもお邪魔したいと思います。
そうそう、NHKで円山応挙と対比して語られる伊藤若冲(いとう じゃくちゅう)なる画家の作品をみてすごく興味をそそられています。両者を比べながら、どこかで見ることができないか、惣兵衛の新たな課題にしたいと思います。
こうして歴史と美術に触れるのもたのしいですね!

にほんブログ村 ←素晴らしい襖絵に彩られたすばらしい古刹に、応援クリックお願いします!
大乗寺公式HP
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それは素晴らしいと、早速行ってまいりました。

亀居山 大乗寺です。高野山真言宗のお寺です。
このお寺は745年(天平17年)に行基が自ら堀った聖観音を本尊として創建したそうです。その後、戦乱により衰退しますが、江戸時代後期の寛政年間(1700年代後半)に当時の住職 密蔵上人により再興され、今に至るそうです。
先日紹介した比曽寺もそうですが、天平時代に創建された歴史あるお寺が但馬には多いのです。

石段を上がると大きくて美しい山門が覆いかぶさるように迎えてくれます。

山門に施された彫刻は精緻で美しいものです。

但馬のお寺としては珍しい、お城のような石垣があり、そこには秋を告げる真っ赤なもみじがありました。美しいですね。

山門をくぐると本堂です。こちらも立派な建物です。

今は閉鎖されている正面玄関には円山応挙の像があります。穏やかな表情が印象的です。
円山応挙と大乗寺の関係ですが、大乗寺を復興させた蜜蔵上人は京都を訪問していた時に、当時はまだ無名だった円山応挙に出会ったそうです。応挙は農家の生まれで貧しかったのですが、蜜蔵上人がその才能を認め、銀三貫目を与え、それを元手に応挙は江戸で学んだそうです。その後、応挙は大成し、弟子12名とともに、大乗寺の大修復作業に当たり恩に報いるべく、当地に滞在して多くの襖絵などを制作したそうです。

こちらの玄関からは撮影禁止ですので皆さんに素晴らしい襖絵や掛け軸などをご紹介できません。詳細は大乗寺公式HPをご覧ください。
円山応挙の障壁画特別公開は襖絵をデジタルスキャンしてデジタルデータで残すプロジェクトが終了したのにあたり、2023年3月15日まで、円山応挙直筆の「孔雀の間」「芭蕉の間」「山水の間」を見ることができます。是非とも行ってみてください。
神戸新聞の記事もありますのでどうぞ。
季節柄、大丈夫だと思いますが、大乗寺は半ズボンや短いスカートは入場禁止だったと思いますのでご注意を。

ガイドさんにこんな素敵な裏庭を見せていただけました。
本堂を出ます。

本堂の前にはこのお寺をずっと見守ってきただろうと思われる大木がそびえます。

鐘楼も大きなもので、鐘の大きさも立派でした。

さらに北の奥に進むと観音堂と薬師堂がありました。そのさらに奥には応挙の絵が収蔵されている収蔵庫もあります。春と秋に限定で公開されるそうなので、また来春にでもお邪魔したいと思います。
そうそう、NHKで円山応挙と対比して語られる伊藤若冲(いとう じゃくちゅう)なる画家の作品をみてすごく興味をそそられています。両者を比べながら、どこかで見ることができないか、惣兵衛の新たな課題にしたいと思います。
こうして歴史と美術に触れるのもたのしいですね!

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大乗寺公式HP