但馬街道を行く! ~その16<完> 枚田から和田山の但馬街道終着点へ
2016/04/08 Fri. 06:00 [但馬街道]
さあ、赤淵神社を後にして、いよいよ但馬街道の終着点へ向けて出発です。

枚田地区から北に向けた旧街道は、またもや農地整備により消失しておりました。でも、北のはずれにはほんの50mほど残っています。そこには、すばらしい木の板を上手に使った土塀が見事な古民家がありました。

すぐ近くにも素敵な古民家があります。この集落はとても豊かな地域だったのでしょうね。

さらに歩みを進めるとまたもや車しか通らない寂しい時間が過ぎます。

ついに和田山の市街地の南にたどり着きます。実は昔の街道は今の大きな通りではなくて、川沿いの細い路地です。

なんともいい雰囲気です。その先に見つけたものがこれです。

極端な鋭角の三叉路の先っぽに小さな地蔵堂があります。その脇には・・・・

これは有名な道標です。和田山から南方面に文字があって、「右 はりま、左いせ」とされていて、右が但馬街道で播州につづく道、左が伊勢神宮につながる山陰道を指します。
ここが姫路から続く但馬街道の終着点です。ここからは少しだけ山陰道である和田山を見物しましょう。
和田山は但馬にとって重要な追分であり、大きな宿場町だったようです。ですのでこの辺りには素晴らしいうだつの上がった古民家が集中しています。



鉄道が伸びる明治時代初期まではこの辺りが和田山の中心地で、ずいぶん栄えていたことが解ります。

細い旧街道は再び太い県道に出会います。そこには園龍寺があります。ここには但馬最古の奈良時代の「金銅菩薩立像」があるというだけでなく、約330年前の大水害によって犠牲になった沢山の被害者の霊を慰めるために、この寺に子安地蔵を建立されました。これを祀るために行われるのが但馬三大祭りの和田山地蔵祭りです。


その脇にも、本うだつの上がった、近年に綺麗に改修し、白壁も美しくなった古民家があります。古い貴重なものを大切にする素晴らしい活動です。心より感謝申し上げたいです。
県道からを渡り、再び細い旧街道に進みます。

たった50mくらいの距離ですが、6件ほどのうだつの上がった建物があり、古い旅館の看板もあることから、昔の宿場町の名残を感じることができます。

駅前の通りに出ますが、本当の街道は線路沿いの細い道だと思います。

いまでは、駐車場が整備されていて、途中で行き止まりになっています。

ついに和田山駅に到着しました。
これで、但馬街道のシリーズは終了です。やっぱり街道を歩くというのは楽しいことでした。体にもいいことですしね。
次は山陰道を巡りたいと思いますが、JRが使えるのが梁瀬から八鹿まで。あとは・・・。まずは八鹿から城崎温泉へ向かう豊岡街道にしようかな・・・・。
すばらしい但馬の街道に乾杯!
(完)

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枚田地区から北に向けた旧街道は、またもや農地整備により消失しておりました。でも、北のはずれにはほんの50mほど残っています。そこには、すばらしい木の板を上手に使った土塀が見事な古民家がありました。

すぐ近くにも素敵な古民家があります。この集落はとても豊かな地域だったのでしょうね。

さらに歩みを進めるとまたもや車しか通らない寂しい時間が過ぎます。

ついに和田山の市街地の南にたどり着きます。実は昔の街道は今の大きな通りではなくて、川沿いの細い路地です。

なんともいい雰囲気です。その先に見つけたものがこれです。

極端な鋭角の三叉路の先っぽに小さな地蔵堂があります。その脇には・・・・

これは有名な道標です。和田山から南方面に文字があって、「右 はりま、左いせ」とされていて、右が但馬街道で播州につづく道、左が伊勢神宮につながる山陰道を指します。
ここが姫路から続く但馬街道の終着点です。ここからは少しだけ山陰道である和田山を見物しましょう。
和田山は但馬にとって重要な追分であり、大きな宿場町だったようです。ですのでこの辺りには素晴らしいうだつの上がった古民家が集中しています。



鉄道が伸びる明治時代初期まではこの辺りが和田山の中心地で、ずいぶん栄えていたことが解ります。

細い旧街道は再び太い県道に出会います。そこには園龍寺があります。ここには但馬最古の奈良時代の「金銅菩薩立像」があるというだけでなく、約330年前の大水害によって犠牲になった沢山の被害者の霊を慰めるために、この寺に子安地蔵を建立されました。これを祀るために行われるのが但馬三大祭りの和田山地蔵祭りです。


その脇にも、本うだつの上がった、近年に綺麗に改修し、白壁も美しくなった古民家があります。古い貴重なものを大切にする素晴らしい活動です。心より感謝申し上げたいです。
県道からを渡り、再び細い旧街道に進みます。

たった50mくらいの距離ですが、6件ほどのうだつの上がった建物があり、古い旅館の看板もあることから、昔の宿場町の名残を感じることができます。

駅前の通りに出ますが、本当の街道は線路沿いの細い道だと思います。

いまでは、駐車場が整備されていて、途中で行き止まりになっています。

ついに和田山駅に到着しました。
これで、但馬街道のシリーズは終了です。やっぱり街道を歩くというのは楽しいことでした。体にもいいことですしね。
次は山陰道を巡りたいと思いますが、JRが使えるのが梁瀬から八鹿まで。あとは・・・。まずは八鹿から城崎温泉へ向かう豊岡街道にしようかな・・・・。
すばらしい但馬の街道に乾杯!
(完)

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[edit]
但馬街道を行く! ~その15 歴史ある厳かな雰囲気を纏った社に感激 赤淵神社 朝来市和田山牧田
2016/04/07 Thu. 06:00 [但馬街道]
慧林寺を出たら、近くに神社があるということで、山際の道を数十メートル北に歩きました。

これは赤渕神社といいう神社の一の鳥居です。

一の鳥居をくぐるとうっそうとした林の中を登る石段が続き、立派な門が立ちはだかっていました。

但馬ではめったにみない立派な楼門です。


この楼門に施された彫刻が見事です。
この赤淵神社は先に竹田でご紹介した表米神社の神様、表米皇子が645年に日下部姓を受けて、丹後に押し寄せた新羅の軍を撃退した時、船が強風で船が損傷しましたが、大海龍王の使いのあわびが大量に浮かび上がり勝利を遂げ、表米皇子があわびを持ち帰り、この神社に祀ったとされることから、大海龍王神と表米皇子自身である表米宿彌神、表米皇子の祖神である赤渕足 尼神を祭神としています。
このため、牧田の人たちはあわびを食べないとされ、アワビの祭りもあるそうです。
別の説によると、あわびではなく、表米皇子が信仰した粟鹿神社に祈ったところ、敵軍をたちまち破ることができたということから、粟鹿神社の祭神と一緒という説もあるそうです。

さらに、一段高い境内へと続く石段の上には神門が待ち構えていました。

神門をくぐると林の切れ目ができて、広い明るい境内になります。手水社のむこうにはさらに石段があり、さらに立派な門が見えますね。

その広い境内には奉納相撲が行われる土俵があります。それとお堂もありますね。

手水社の脇には礎石がありました。これは昔あった三重塔の礎石だそうです。昔はさらにすばらしい神社だったのでしょうね。

石段の上は、参道の石畳の真ん中にある勅使門です。
これもまた素晴らしい門です。この神社は表米皇子の一族である日下部氏の氏神様であり、そこから派生した但馬の名門である、朝倉、絲井、奈佐、日下、八木、本山、太田垣、宿南にも関係を持ちます。和田山にある二宮神社は表米皇子の第二子である朝倉氏の氏神であることから、この時期は一宮としての位置づけだったともいわれています。
現在のものは、八鹿の八木城主八木氏が江戸時代中期に再建したもののようですね。

この彫刻もまた素晴らしいものです。

勅使殿をくぐったその先には拝殿が迎えてくれます。賽銭をして、但馬の安寧を願いました。

右に行くと赤い鳥居があります。これは境内社のひとつ稲荷社です。

境内右から見た本殿の様子です。意外と簡素な感じです。それはそうです。これは本殿を覆う本殿覆屋です。本殿を風雨から守るために建てられた建物です。

拝殿左側に移ると神主さんが本殿と拝殿に向かう玄関口としての建物があり、それが渡り廊下でつながれています。なんと素晴らしい神社でしょう。

左にはさらに多くの境内社があります。護国神社から、秋葉神社、三宝荒神、絹巻社、金刀比羅宮などです。

その奥には池の中の社があります。これはたぶん、池の中にあることから弁天社ではないでしょうか。

境内左からは本殿覆殿に近づけます。

格子の向こうに本殿の姿が少しだけ見ることができます。ほんの少しですが、美しい曲線美の茅葺の屋根と彫刻が見えました。素晴らしい本殿であることは想像できますね。

本殿から拝殿を見るとこんな感じです。素晴らしい神社ですね。
神社をくまなく歩くとよくわかるのですが、隅から隅まで綺麗に掃き清められていました。そして、お子さんを連れて参拝に来るお父さんの姿も。今も信仰をあつめ、生きている神社なのですね。

すばらしい神社に出会えた喜びから、途中で参道を外れて脇道に移動します。その脇には小さな屋根の付いた小屋がありました。どうやら湧き水が出る場所なのでしょう。
とても有意義な時間を過ごせて大満足な惣兵衛でした。
すばらしい但馬の歴史に乾杯!
(その16につづく)

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これは赤渕神社といいう神社の一の鳥居です。

一の鳥居をくぐるとうっそうとした林の中を登る石段が続き、立派な門が立ちはだかっていました。

但馬ではめったにみない立派な楼門です。


この楼門に施された彫刻が見事です。
この赤淵神社は先に竹田でご紹介した表米神社の神様、表米皇子が645年に日下部姓を受けて、丹後に押し寄せた新羅の軍を撃退した時、船が強風で船が損傷しましたが、大海龍王の使いのあわびが大量に浮かび上がり勝利を遂げ、表米皇子があわびを持ち帰り、この神社に祀ったとされることから、大海龍王神と表米皇子自身である表米宿彌神、表米皇子の祖神である赤渕足 尼神を祭神としています。
このため、牧田の人たちはあわびを食べないとされ、アワビの祭りもあるそうです。
別の説によると、あわびではなく、表米皇子が信仰した粟鹿神社に祈ったところ、敵軍をたちまち破ることができたということから、粟鹿神社の祭神と一緒という説もあるそうです。

さらに、一段高い境内へと続く石段の上には神門が待ち構えていました。

神門をくぐると林の切れ目ができて、広い明るい境内になります。手水社のむこうにはさらに石段があり、さらに立派な門が見えますね。

その広い境内には奉納相撲が行われる土俵があります。それとお堂もありますね。

手水社の脇には礎石がありました。これは昔あった三重塔の礎石だそうです。昔はさらにすばらしい神社だったのでしょうね。

石段の上は、参道の石畳の真ん中にある勅使門です。
これもまた素晴らしい門です。この神社は表米皇子の一族である日下部氏の氏神様であり、そこから派生した但馬の名門である、朝倉、絲井、奈佐、日下、八木、本山、太田垣、宿南にも関係を持ちます。和田山にある二宮神社は表米皇子の第二子である朝倉氏の氏神であることから、この時期は一宮としての位置づけだったともいわれています。
現在のものは、八鹿の八木城主八木氏が江戸時代中期に再建したもののようですね。

この彫刻もまた素晴らしいものです。

勅使殿をくぐったその先には拝殿が迎えてくれます。賽銭をして、但馬の安寧を願いました。

右に行くと赤い鳥居があります。これは境内社のひとつ稲荷社です。

境内右から見た本殿の様子です。意外と簡素な感じです。それはそうです。これは本殿を覆う本殿覆屋です。本殿を風雨から守るために建てられた建物です。

拝殿左側に移ると神主さんが本殿と拝殿に向かう玄関口としての建物があり、それが渡り廊下でつながれています。なんと素晴らしい神社でしょう。

左にはさらに多くの境内社があります。護国神社から、秋葉神社、三宝荒神、絹巻社、金刀比羅宮などです。

その奥には池の中の社があります。これはたぶん、池の中にあることから弁天社ではないでしょうか。

境内左からは本殿覆殿に近づけます。

格子の向こうに本殿の姿が少しだけ見ることができます。ほんの少しですが、美しい曲線美の茅葺の屋根と彫刻が見えました。素晴らしい本殿であることは想像できますね。

本殿から拝殿を見るとこんな感じです。素晴らしい神社ですね。
神社をくまなく歩くとよくわかるのですが、隅から隅まで綺麗に掃き清められていました。そして、お子さんを連れて参拝に来るお父さんの姿も。今も信仰をあつめ、生きている神社なのですね。

すばらしい神社に出会えた喜びから、途中で参道を外れて脇道に移動します。その脇には小さな屋根の付いた小屋がありました。どうやら湧き水が出る場所なのでしょう。
とても有意義な時間を過ごせて大満足な惣兵衛でした。
すばらしい但馬の歴史に乾杯!
(その16につづく)

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但馬街道を行く! ~その14 竹田を出て枚田地区までてくてく歩き
2016/04/06 Wed. 06:00 [但馬街道]
いよいよ但馬街道記も終盤戦です。前回は竹田の城下町の風情を味わいながら歩き終わって日没タイムアップでした。とある日曜日に汽車に乗って竹田駅に降り立って、但馬街道の終点である和田山を目指します。

竹田に向かう汽車は2両編成ですがほぼ満員。これはにぎわっているのだろうと思ったら、駅から竹田城に登るのに便利なターミナルへのバスにほとんどの方がのっていかれました。

よって、駅前を通る但馬街道沿いの城下町は寂しい感じ・・・・。
城下町も面白いし、実は反対側の立雲峡のほうから眺める竹田城も綺麗なのです。城に登るだけでなく、周辺も楽しんでみるのもいいですよ。

さて、惣兵衛は前回中断した竹田の街の北のはずれから再スタートです。この交差点を左に曲がれば竹田城へ最も近くて楽な登山道になります。ほとんどの車やバスが右から左へ向かいますが、惣兵衛はそのまま直進して北上を続けます。

ここから人里を離れていきます。青い空を播但自動車道路の高架橋が横切っていますね。

播但道路をくぐると、道の脇が少し広くなっていて、以前から気になっていた石仏のようなものがたくさんある場所に出ました。

コンクリートの木のように模した柵の向こうは円山川に直角に落ち込んでいる崖みたいな場所なのですが、道から見ると単なる石だと思っていたものが、実は川を眺めるように立っている石仏でした。当時は和田山も水運の拠点であったようですので、川の安全を祈ったものなのでしょうか。

こちらには一体の石仏と3つの石碑があります。新しい石碑には「三界萬霊」とありますから欲界(物質欲の世界)、色界(形質だけの世界)、無色界(心だけが生きている世界)の3つの世界のすべての精霊を供養することの大切さを示すものですね。なぜここにあるのか、調べようがないので宿題といたします。
さらに歩を進めると道端に小さなお地蔵さんがありました。

かわいらしいお地蔵さんですね。とても古いもののようです。興味をそそられて書いてある文字を読んでみます。「大●竜王」と書いてありますが、2番目の文字がひびをコンクリートで修復した際にうもって読めない状態です。
あとでわかったのですが、この後に出てくる赤渕神社に祀られている神のひとつの大海竜王と書いてあるようです。これは八大竜王のひとつである娑羯羅龍王(しゃからりゅうおう)のことで、竜宮の王であり、雨乞いの神様だそうです。

このまままっすぐ行っても新しい道のようで、本来の街道に最も近い道をということで、山側の細道を歩きます。結局は農地改良工事に伴い、整備されてしまっていましたが・・・。

JR播但線を上から見下ろせる場所がありました。

枚田地区ですね。昔の西枚田村になるのでしょう。

早速、すばらしい本うだつの立った大きな家屋に出会えました。これは素晴らしい。
その反対側には・・・・

小さなお堂がありました。これは但馬六十六地蔵の四十三番札所となるお地蔵さんです。

大きな自然石に掘られたとても素朴なお地蔵さんでした。おもわず、賽銭をして、手を合わさせていただきました。このあとも、枚田の集落の中に地蔵堂を発見しましたが、信仰の厚い地域だったのでしょうね。

地区内の路地に入っていくと・・・・・

びっくりするほど大きなお屋敷に遭遇しました。

しかも、しっかりと手入れがされていて素晴らしいです。庭も素晴らしいものだと思います。私邸ですので興味はそそられますが、見学させてくださいとは言い出せず、さらに先に進みます。

山に向かってゆっくりとした坂道を上がっていくと・・・・。

大きな仁王像が立っていました。さらに進むと・・・・

まるで城のような石垣を持つ臨済宗妙心寺派の慧林寺(えりんじ)さんです。

このお寺、ネットで調べてみると元々は竹田の城下町にあった恵林寺が、この枚田に移り、慧林寺とされた、竹田と深いつながりのあるお寺でした。
昔の方々の信仰の厚さに感激です。
(その15につづく)

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竹田に向かう汽車は2両編成ですがほぼ満員。これはにぎわっているのだろうと思ったら、駅から竹田城に登るのに便利なターミナルへのバスにほとんどの方がのっていかれました。

よって、駅前を通る但馬街道沿いの城下町は寂しい感じ・・・・。
城下町も面白いし、実は反対側の立雲峡のほうから眺める竹田城も綺麗なのです。城に登るだけでなく、周辺も楽しんでみるのもいいですよ。

さて、惣兵衛は前回中断した竹田の街の北のはずれから再スタートです。この交差点を左に曲がれば竹田城へ最も近くて楽な登山道になります。ほとんどの車やバスが右から左へ向かいますが、惣兵衛はそのまま直進して北上を続けます。

ここから人里を離れていきます。青い空を播但自動車道路の高架橋が横切っていますね。

播但道路をくぐると、道の脇が少し広くなっていて、以前から気になっていた石仏のようなものがたくさんある場所に出ました。

コンクリートの木のように模した柵の向こうは円山川に直角に落ち込んでいる崖みたいな場所なのですが、道から見ると単なる石だと思っていたものが、実は川を眺めるように立っている石仏でした。当時は和田山も水運の拠点であったようですので、川の安全を祈ったものなのでしょうか。

こちらには一体の石仏と3つの石碑があります。新しい石碑には「三界萬霊」とありますから欲界(物質欲の世界)、色界(形質だけの世界)、無色界(心だけが生きている世界)の3つの世界のすべての精霊を供養することの大切さを示すものですね。なぜここにあるのか、調べようがないので宿題といたします。
さらに歩を進めると道端に小さなお地蔵さんがありました。

かわいらしいお地蔵さんですね。とても古いもののようです。興味をそそられて書いてある文字を読んでみます。「大●竜王」と書いてありますが、2番目の文字がひびをコンクリートで修復した際にうもって読めない状態です。
あとでわかったのですが、この後に出てくる赤渕神社に祀られている神のひとつの大海竜王と書いてあるようです。これは八大竜王のひとつである娑羯羅龍王(しゃからりゅうおう)のことで、竜宮の王であり、雨乞いの神様だそうです。

このまままっすぐ行っても新しい道のようで、本来の街道に最も近い道をということで、山側の細道を歩きます。結局は農地改良工事に伴い、整備されてしまっていましたが・・・。

JR播但線を上から見下ろせる場所がありました。

枚田地区ですね。昔の西枚田村になるのでしょう。

早速、すばらしい本うだつの立った大きな家屋に出会えました。これは素晴らしい。
その反対側には・・・・

小さなお堂がありました。これは但馬六十六地蔵の四十三番札所となるお地蔵さんです。

大きな自然石に掘られたとても素朴なお地蔵さんでした。おもわず、賽銭をして、手を合わさせていただきました。このあとも、枚田の集落の中に地蔵堂を発見しましたが、信仰の厚い地域だったのでしょうね。

地区内の路地に入っていくと・・・・・

びっくりするほど大きなお屋敷に遭遇しました。

しかも、しっかりと手入れがされていて素晴らしいです。庭も素晴らしいものだと思います。私邸ですので興味はそそられますが、見学させてくださいとは言い出せず、さらに先に進みます。

山に向かってゆっくりとした坂道を上がっていくと・・・・。

大きな仁王像が立っていました。さらに進むと・・・・

まるで城のような石垣を持つ臨済宗妙心寺派の慧林寺(えりんじ)さんです。

このお寺、ネットで調べてみると元々は竹田の城下町にあった恵林寺が、この枚田に移り、慧林寺とされた、竹田と深いつながりのあるお寺でした。
昔の方々の信仰の厚さに感激です。
(その15につづく)

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[edit]
但馬街道を行く! ~その13 竹田城下町をゆったり巡る
2016/04/05 Tue. 06:00 [但馬街道]
竹田の寺街を歩いて竹田駅に戻ってからの続きです。
夕方の遅い時間になってしまったので、姫路方面には汽車があるものの、但馬方面にはしばらく汽車がありません。神河町に出かけている奥方に帰りに迎えに来てもらうことにして、すこし和田山方面に歩きはじめることにしました。
その前に、竹田の城下町の南端で街道を離れて、寺町通りに入ったので、少し元の位置に戻りましょう。

しかし、竹田のお城は凄い人なのですが、城下町はちょっと閑散としていますね。ちょっと残念です。

立派な建物がありました。これは400年の歴史を持つ造り酒屋さんだったのですが、今では市により改装され、旧木村酒造場 ENというレストランとホテルになっています。レストランメニューを見るとランチで2,800円~、ディナーで5,000円~。そう、先日ご紹介した豊岡のオーベルジュ豊岡1925と同じ経営のようですね。

その隣にはちょっとした広場があって、簡単な展示のある竹田城についての情報館「天空の城」があります。

竹田城城主である赤松広秀さんが、家系図の中で「広英」になっているのですがいいのかな・・・・・。
さて、気を取り直して街道に戻ります。

こちらは古民家を使った鉄板焼き屋さんです。少しずつですがこうしたお店ができています。もっと増えてほしいですし、できれば観光客を迎えるためにも営業時間が拡大できればいいのですが。

壁を照明の形にくりぬき、漆喰できれいに仕上げられています。これで、外灯としても、玄関の灯りとしても使えるのですね。

灰色の漆喰の壁に一階にある木製の格子戸と、二階の黒い虫籠窓がセンスのいい古民家です。

よく見ると黒い漆喰の格子の間に白い漆喰などで美しい装飾が施されていました。いい腕の左官職人さんがおられたのでしょうね。

古い家の窓を見ているだけで楽しいです。

竹田のなかの街道はこうしてカギ状にクランクになったところが何ヵ所かあります。侵入してくる敵軍の勢いをそぐための城下町独特の仕組みなのでしょうか。

このあたりで、とても目を引く建物に出会えました。珍しい赤茶色の漆喰の本うだつの素晴らしい家です。

虫籠窓の前をよく見ると、なんと精緻に彫刻された不動明王の像があります。あまりの素晴らしさに驚き、手を合わさせていただきました。

その斜め前には片側だけうだつのある立派な建物があります。
うだつは「梲」または「卯建」とかき、兎の耳のようなものなのですが、隣接する建物の火事の火を防ぐ防火施設ですが、隣接していない建物でもあるというのは富の象徴的な修飾の要素が強いですね。「うだつが上がらない」などというゆえんです。

これはまた素晴らしい梲の上がった建物です。完成度が高く、綺麗に修繕されています。こうした建物が増えてほしいですね。

通りを進むと左手に寺があることを示す石碑があり、もちろんそちらに進みます。

簡素ながら、雰囲気のある門が迎えてくれます。この左側には防火の神様である秋葉神社がありました。

立派な山門が迎えてくれます。このお寺は臨済宗の観音寺です。

境内には立派な本堂や観音堂、経堂、庫裡、鐘楼などが並びます。立派なお寺です。創建は1764年と江戸時代中期のようです。

城郭のような堅牢な石垣の上には銃眼のある塀がありました。これと関係があるかどうかはわかりませんが、このお寺の上に竹田城の支城となると思われる観音寺城の跡があります。今ではかろうじて石垣があるのみのようですが、ここから登ってみたくなりました。

そのお寺を降りると、途中に日蓮宗の妙泉寺があります。こちらのお寺もいいですね。
寺を降りて街道に戻りましょう。

そこには先生さんや煮豆の欠片さんのお気に入りのカフェがありました。寄ってみたいけど時間がないので次の機会に・・・(涙)。

竹田の市街地の北のはずれには様々な石塔が並べられていました。
ん?
なにか?

これは道標です。
向かって右には途中でペンキが塗られていませんでしたが「右 たんごなりあい」と書かれています。以前、夜久野高原でご紹介しましたが、播州の西国三十三観音霊場第二十七番札所の西国書写山圓教寺から宮津の二十八番札所である成相山 成相寺へ向かう巡礼者が但馬路(現在の播但道)を経て宮津に向かう道を「なりあいみち」といいます。
ここで但馬街道から離れて、円山川を渡り、夜久野高原に向かったのでしょうね。
正面には「す●● ゆしま」と書かれています。「ゆしま」とは今の城崎のことです。城崎温泉の中心部を城崎町湯島といいます。当時は温泉に向かうには豊岡から船で行くしかなく島のようだということで、湯の出る島から湯島という地名だったのです。
城崎の由来は知りませんが、秀吉による但馬攻めのあと、豊岡の城を豊岡城に改名しましたが、その前は木崎城(城崎城)であったので、湯島に行くために寄る木崎がいつの間にか通称になったのかもしれません。
ここで奥方が迎えに来てくれました。
続きは日を改めました。
(その14につづく)

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夕方の遅い時間になってしまったので、姫路方面には汽車があるものの、但馬方面にはしばらく汽車がありません。神河町に出かけている奥方に帰りに迎えに来てもらうことにして、すこし和田山方面に歩きはじめることにしました。
その前に、竹田の城下町の南端で街道を離れて、寺町通りに入ったので、少し元の位置に戻りましょう。

しかし、竹田のお城は凄い人なのですが、城下町はちょっと閑散としていますね。ちょっと残念です。

立派な建物がありました。これは400年の歴史を持つ造り酒屋さんだったのですが、今では市により改装され、旧木村酒造場 ENというレストランとホテルになっています。レストランメニューを見るとランチで2,800円~、ディナーで5,000円~。そう、先日ご紹介した豊岡のオーベルジュ豊岡1925と同じ経営のようですね。

その隣にはちょっとした広場があって、簡単な展示のある竹田城についての情報館「天空の城」があります。

竹田城城主である赤松広秀さんが、家系図の中で「広英」になっているのですがいいのかな・・・・・。
さて、気を取り直して街道に戻ります。

こちらは古民家を使った鉄板焼き屋さんです。少しずつですがこうしたお店ができています。もっと増えてほしいですし、できれば観光客を迎えるためにも営業時間が拡大できればいいのですが。

壁を照明の形にくりぬき、漆喰できれいに仕上げられています。これで、外灯としても、玄関の灯りとしても使えるのですね。

灰色の漆喰の壁に一階にある木製の格子戸と、二階の黒い虫籠窓がセンスのいい古民家です。

よく見ると黒い漆喰の格子の間に白い漆喰などで美しい装飾が施されていました。いい腕の左官職人さんがおられたのでしょうね。

古い家の窓を見ているだけで楽しいです。

竹田のなかの街道はこうしてカギ状にクランクになったところが何ヵ所かあります。侵入してくる敵軍の勢いをそぐための城下町独特の仕組みなのでしょうか。

このあたりで、とても目を引く建物に出会えました。珍しい赤茶色の漆喰の本うだつの素晴らしい家です。

虫籠窓の前をよく見ると、なんと精緻に彫刻された不動明王の像があります。あまりの素晴らしさに驚き、手を合わさせていただきました。

その斜め前には片側だけうだつのある立派な建物があります。
うだつは「梲」または「卯建」とかき、兎の耳のようなものなのですが、隣接する建物の火事の火を防ぐ防火施設ですが、隣接していない建物でもあるというのは富の象徴的な修飾の要素が強いですね。「うだつが上がらない」などというゆえんです。

これはまた素晴らしい梲の上がった建物です。完成度が高く、綺麗に修繕されています。こうした建物が増えてほしいですね。

通りを進むと左手に寺があることを示す石碑があり、もちろんそちらに進みます。

簡素ながら、雰囲気のある門が迎えてくれます。この左側には防火の神様である秋葉神社がありました。

立派な山門が迎えてくれます。このお寺は臨済宗の観音寺です。

境内には立派な本堂や観音堂、経堂、庫裡、鐘楼などが並びます。立派なお寺です。創建は1764年と江戸時代中期のようです。

城郭のような堅牢な石垣の上には銃眼のある塀がありました。これと関係があるかどうかはわかりませんが、このお寺の上に竹田城の支城となると思われる観音寺城の跡があります。今ではかろうじて石垣があるのみのようですが、ここから登ってみたくなりました。

そのお寺を降りると、途中に日蓮宗の妙泉寺があります。こちらのお寺もいいですね。
寺を降りて街道に戻りましょう。

そこには先生さんや煮豆の欠片さんのお気に入りのカフェがありました。寄ってみたいけど時間がないので次の機会に・・・(涙)。

竹田の市街地の北のはずれには様々な石塔が並べられていました。
ん?
なにか?

これは道標です。
向かって右には途中でペンキが塗られていませんでしたが「右 たんごなりあい」と書かれています。以前、夜久野高原でご紹介しましたが、播州の西国三十三観音霊場第二十七番札所の西国書写山圓教寺から宮津の二十八番札所である成相山 成相寺へ向かう巡礼者が但馬路(現在の播但道)を経て宮津に向かう道を「なりあいみち」といいます。
ここで但馬街道から離れて、円山川を渡り、夜久野高原に向かったのでしょうね。
正面には「す●● ゆしま」と書かれています。「ゆしま」とは今の城崎のことです。城崎温泉の中心部を城崎町湯島といいます。当時は温泉に向かうには豊岡から船で行くしかなく島のようだということで、湯の出る島から湯島という地名だったのです。
城崎の由来は知りませんが、秀吉による但馬攻めのあと、豊岡の城を豊岡城に改名しましたが、その前は木崎城(城崎城)であったので、湯島に行くために寄る木崎がいつの間にか通称になったのかもしれません。
ここで奥方が迎えに来てくれました。
続きは日を改めました。
(その14につづく)

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[edit]
但馬街道を行く! ~その12 竹田の魅力は城跡だけにあらず~寺町後編~寺町通りを歩く
2016/03/31 Thu. 06:00 [但馬街道]
さあ、表米神社で但馬の古の話が分かったところで、ここから線路の手前を北に向かう竹田寺町通りを歩きます。

最初は民家が軒を連ねますが・・・

竹田駅が見えてくると、お寺がずらりと並びます。

道に沿って流れる水路の水は大変きれいで、鯉が気持ちよさそうに泳いでいました。

最初のお寺に向かいます。これは真宗西本願寺派の善證寺です。

元々は観音町といいますから、現在の竹田駅前にあったのですが、慶長の大地震で城下町を覆った大火で焼失し、江戸時代初期に、当時の最大の檀家であった赤松氏の重臣によって再建されたそうです。
お寺を出て石橋の上から水路を眺めますとなかなかいい感じですね。

さて、次のお寺はすぐ隣にあります。

こちらは浄土真宗大谷派の常光寺です。
塀に5本の線があるのは時の天皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された勅願寺である証だそうです。

こちらは、元々は竹田城と円山川を隔てて反対にある金梨山の山麓にあったそうですが、大火にあい焼失し、江戸時代初期にこの場に移されたそうです。

竹田城の初代城主・太田垣光景の菩提寺だそうで、光景公の墓碑とされる石塔)が裏の墓地にあります。

こちらは浄土真宗本願寺派の勝賢寺です。

こちらも金梨山の麓に創建されていたようですが、竹田城が廃城になってのち、江戸時代初期にこちらに移ったようです。
最後の四寺目がこのお寺です。

浄土宗の法樹寺です。
このお寺も元々城下町にあったのですが、江戸時代初期に旧城主の赤松家の土地、陣屋などを譲り受けて再建したものだそうです。

このお寺の墓地に向かいます。すると上の墓地に向かう石段の隣にたくさんの石仏が並んでいました。

これは観音石佛といって、赤松の屋敷と竹田城の間の登山道にずらりと並べられていたものをここにまとめて管理したもののようです。赤松氏は登城の際に西国三十三巡礼をしていたということですね。

こちらが赤松広秀のお墓です。
こうしてみるともともとこの辺りは寺町でなく、城主や重臣の屋敷や陣屋があった場所のようですね。江戸時代から今のように整備されたみたいです。
さらに北上します。

こちらが駅から最も近い登山口です。惣兵衛は子どものころ、遠足でここからよく登ったものです。

こちらが天満宮です。桜がきれいみたいですよ。
祇園神社から北に向かう山道があり、それをさらに歩きます。

そこにもまた小さな社がありました。文字がよく読めませんが稲荷神社さんみたいですね。

社から参道を下ると畑の中に赤い鳥居が並びます。
これで、寺町通りは行き止まりです。電車で帰るために竹田駅に向かいます。

これは昔からある、線路の下の通路です。よくとおったものですが、汽車が通ると危ないので近くにある踏切を使ってくださいね。

腰をかがめて頭を打たないようにしないといけません。お勧めできません。

竹田駅に到着しました。
さあ、汽車はあるかな?
(その13につづく)

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最初は民家が軒を連ねますが・・・

竹田駅が見えてくると、お寺がずらりと並びます。

道に沿って流れる水路の水は大変きれいで、鯉が気持ちよさそうに泳いでいました。

最初のお寺に向かいます。これは真宗西本願寺派の善證寺です。

元々は観音町といいますから、現在の竹田駅前にあったのですが、慶長の大地震で城下町を覆った大火で焼失し、江戸時代初期に、当時の最大の檀家であった赤松氏の重臣によって再建されたそうです。
お寺を出て石橋の上から水路を眺めますとなかなかいい感じですね。

さて、次のお寺はすぐ隣にあります。

こちらは浄土真宗大谷派の常光寺です。
塀に5本の線があるのは時の天皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された勅願寺である証だそうです。

こちらは、元々は竹田城と円山川を隔てて反対にある金梨山の山麓にあったそうですが、大火にあい焼失し、江戸時代初期にこの場に移されたそうです。

竹田城の初代城主・太田垣光景の菩提寺だそうで、光景公の墓碑とされる石塔)が裏の墓地にあります。

こちらは浄土真宗本願寺派の勝賢寺です。

こちらも金梨山の麓に創建されていたようですが、竹田城が廃城になってのち、江戸時代初期にこちらに移ったようです。
最後の四寺目がこのお寺です。

浄土宗の法樹寺です。
このお寺も元々城下町にあったのですが、江戸時代初期に旧城主の赤松家の土地、陣屋などを譲り受けて再建したものだそうです。

このお寺の墓地に向かいます。すると上の墓地に向かう石段の隣にたくさんの石仏が並んでいました。

これは観音石佛といって、赤松の屋敷と竹田城の間の登山道にずらりと並べられていたものをここにまとめて管理したもののようです。赤松氏は登城の際に西国三十三巡礼をしていたということですね。

こちらが赤松広秀のお墓です。
こうしてみるともともとこの辺りは寺町でなく、城主や重臣の屋敷や陣屋があった場所のようですね。江戸時代から今のように整備されたみたいです。
さらに北上します。

こちらが駅から最も近い登山口です。惣兵衛は子どものころ、遠足でここからよく登ったものです。

こちらが天満宮です。桜がきれいみたいですよ。
祇園神社から北に向かう山道があり、それをさらに歩きます。

そこにもまた小さな社がありました。文字がよく読めませんが稲荷神社さんみたいですね。

社から参道を下ると畑の中に赤い鳥居が並びます。
これで、寺町通りは行き止まりです。電車で帰るために竹田駅に向かいます。

これは昔からある、線路の下の通路です。よくとおったものですが、汽車が通ると危ないので近くにある踏切を使ってくださいね。

腰をかがめて頭を打たないようにしないといけません。お勧めできません。

竹田駅に到着しました。
さあ、汽車はあるかな?
(その13につづく)

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